鯨骨群集

「クジラが死亡すると、その死骸を食べる魚やその魚を食べる生物が周囲に集まり、一時的に特殊な生態系が構築されることがあります。これを鯨骨群集げいこつぐんしゅうといいます」

「ええ!死骸の周りに集まるなんて、なんか歪な感じですねぇ」


 真っ暗な部屋の中、妻とともに眺めているテレビでコメンテーターが話している。

 だが、テレビを見ても感じるものはなく、私たちの間には沈黙だけが流れている。

 2年前に子どもが亡くなってからというもの、私たちはただ”夫婦”という関係を維持しているだけの他人である。

 あの日、子どもは明るい顔で友人の家に遊びに行き、冷たい身体になって帰宅した。それ以来、家庭の時間は止まったままだ。


「鯨骨群集ですって」


 ふいに妻が言葉を発した。実に半年ぶりに聞いた彼女の声だった。


「ああ。2年ほどそれが維持されて、鯨の死骸が食べつくされると、いつの間にか解消されるらしいね」


 半年ぶりに妻に声をかけるのは、それなりに勇気を必要とした。


「私たちも、もう2年よ」


 疲れたように、少しだけ名残惜しいように、妻は言った。


 かつては確かにこの女性を愛していた。だから、冷め切った関係になった今でも、その真意を取り違えることはなかった。

 思い出は摩滅し、子どもと3人で過ごした記憶は遠い過去になった。もう私たちの間に鯨骨はなくなったのだ。この歪な生態系がなくなるのに、ちょうど良い時期なのだろう。

 テレビの光が照らす彼女の顔は陰影が深く、年齢よりも疲れて見えた。

 私は黙って頷くと、ソファーから立ち上がり、奥の棚にしまっていた離婚届に触れた。

 その時、はらり、と一枚の紙が落ちた。

 拾い上げると、まだ幼さなの残る筆跡で、色画用紙に手書きの文が書いてあった。


『お父さん、お母さん。明日も明後日も一緒だね』


 3つの似顔絵とともに、ただ、そう書かれていた。膝から力が抜けへたり込むと、瞳の奥から熱いものが込み上げてきた。


 不意に嗚咽を漏らし始めた私を見て、妻もこちらに来た。そして、その紙片を見ると、同じように泣き始めた。

 まだ、私たちには鯨骨が残っていたらしい。

 その晩、本当に久しぶりに子どもの思い出を語りあった。一晩中語り合っても、話題が尽きることはなかった。

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