第38話 どうしよう。

 5月25日。



 身体にのしかかる温かな重みで、目を覚ます。


「……朝、か」


 俺に覆い被さるようにして眠っている紗耶ちゃんを起こさないよう立ち上がり、軽く伸びをする。カーテンから溢れる日差しはまだまだ薄暗いから、きっとまだ早朝と言っていいような時間なのだろう。



 記憶を失った紗耶ちゃんを、どうするか。



 どれだけ頭を悩ませても、その答えを出すことはできなかった。だから紗耶ちゃんはそのまま、うちに泊まることになった。


 ……というかそもそも、紗耶ちゃんはそれを当然だと思っていた。自分の帰るべき場所はここで、俺のことを本当のお兄ちゃんだと紗耶ちゃんは思い込んでいる。


「…………」


 だからこんなに無防備に、一緒のベッドで眠ることができるのだろう。


「よだれ垂れてる」


 軽く息を吐いて、ティッシュでよだれを拭いてやる。


「まあ、一緒に寝るくらい別にいいんだけどな。……それより、クロの様子でも見てくるか」


 昨日は結局、クロはずっと眠ったままだった。だから俺はそれが気がかりで、あまり眠ることができなかった。


「まだ、朝の5時過ぎか」


 学校に行くにしても、まだまだ早い時間だ。……まあ、こんな状態のクロと紗耶ちゃんを置いて学校に行く気なんてないから、関係ないけど。


「でも、俺は何日サボっても問題ないけど、紗耶ちゃんはな……」


 そもそも昨日、紗耶ちゃんは家に帰ってない。紗耶ちゃんの家庭環境がどういったものなのかは知らないけど、年頃の娘が連絡もなしにいなくなったら、両親はかなり心配するだろう。


「でもこんな状態の紗耶ちゃんを、家には返せないしな」


 そんなことを呟きながら、クロの部屋の扉を開ける。……するとクロは、やっぱりまだ眠ったままだった。


「大丈夫だよな? クロ」


 そう話しかけるが、返事はない。クロは昨日と同じように、規則正しい寝息を立てるだけ。


「起きたらまた、お前の好きな豚バラ焼いてやるからな」


 クロの頭を軽く撫でて、部屋を出る。


「…………」


 どう見ても、クロはかなり弱っている。俺の目から見ても、それは明らかだ。……ならまた前の時と同じように、シロが来てもおかしくない。


 ……そう思って昨日はずっと警戒していたけど、シロがこの部屋にやって来ることはなかった。


「寝込みは襲わない。なんて良心が、シロにあるとは思えないんだけどな……」


 そもそもあさひが、自分以外の奴が『お兄ちゃん』なんて言って俺に甘えてくるのを、黙って見ているとは思えない。なのに1日経った今でも、何の音沙汰もありはしない。


「ならこの状況も、あいつらの想定通りってことなのか? ……でもじゃあ、あのメモは何なんだ?」


『冬乃江 紗耶を信じるな』そう書かれた、あのメモ帳。あれは、紗耶ちゃんの持ち物だと考えるのが自然だ。でも紗耶ちゃんが自分でそんなことを書くとは、どうしても思えない。


 ならあれは、誰かが紗耶ちゃんに渡したということになる。でもじゃあいったい誰が、あんなものを……。


「ダメだ。思考がまとまらない」


 寝不足で頭がぼやぼやして、上手くものを考えられない。けど今から眠る気にはなれないから、手早くコーヒー淹れてリビングのソファに座る。


「……ふぅ」


 コーヒーカップを傾けて、窓の外に視線を向ける。そうすれば少しは落ち着くと思ったけど、窓の外に広がる朝焼けを見ていると、どうしてか胸が痛くなる。


「……あ。お兄ちゃん、こんな所にいた」


 するとそこで、まだまだ眠そうな顔をした紗耶ちゃんが姿を現す。


「おはよう、紗耶ちゃん。……起こしちゃったかな?」


「ううん。目を覚ましたらお兄ちゃん居なくなってたから、心配して起きてきたの」


「……そっか。でも俺はちょっと考えたいことがあるから、紗耶ちゃんはまだ寝てるといいよ」


「ダメ。お兄ちゃんが起きるなら、私も起きる」


 パジャマの代わりに俺のTシャツを着た紗耶ちゃんは、大きなあくびを溢しながら俺の隣に腰掛ける。


「紗耶ちゃんも、コーヒー飲む?」


「……今はいい。それよりお兄ちゃん、寝てないの? 疲れた顔してるよ?」


「いや、まあ……大丈夫だよ。やらなきゃいけないことが、沢山あるだけだから」


「ほんと? 私が邪魔だから、眠れなかったわけじゃないよね?」


 紗耶ちゃんは本当に不安そうな顔で、俺を見る。その姿はどこからどう見ても子供にしか見えなくて、少し複雑な気分になってしまう。


「大丈夫だよ。紗耶ちゃんのせいじゃないから」


 コーヒーカップをテーブルに置いて、紗耶ちゃんの頭を軽く撫でてやる。


「えへへ。お兄ちゃん優しいから、好き」


「ありがとう。紗耶ちゃんにそう言ってもらえると、嬉しいよ」


「じゃあこれからは、いっぱい好きって言ってあげるね?」


「……それはそれで嬉しいけど、そういう言葉は大切な時にとっておいた方がいいよ」


「大切な時って?」


「この人の側にずっといたいって、そう心から思った時かな」


 俺のその言葉を聞いて、紗耶ちゃんはまた大きなあくびを溢す。


「無理しないで、眠ってていいよ? ちゃんと側にいてあげるから」


「……大丈夫。眠いけど、もっとお兄ちゃんと話したい」


「……そう言うならそれでいいけど、無理はしないようにね?」


「うん!」


 紗耶ちゃんは花のような笑みを浮かべて、そのまま俺に抱きつく。……今の紗耶ちゃんは下着をつけていないから、大きな胸の感触が直接伝わってくる。


「…………」


 でもこんな無邪気な笑みを浮かべられると、そういうのはあまり気にならなくなる。


「お兄ちゃん。目、赤いよ? 大丈夫?」


「ん? ……ああ。これはオッドアイって言って、俺は産まれた時から左目だけ赤いんだよ」


「綺麗だね」


「……ありがとう」


 紗耶ちゃんはまるで宝石でも見るような目で、俺の瞳を覗き込む。


「…………」


 けれど何か納得いかないことがあったのか、可愛らしく小首を傾げて、不思議そうにその言葉を口にした。



「お兄ちゃんの目、両目とも赤いよ?」



「……え?」


 その言葉はあまりに想定外で、驚きに目を見開く。


「……紗耶ちゃん。俺の目、本当に両目とも赤いの?」


「うん! 宝石みたいで綺麗だよ?」


 この目をそんな風に褒めてもらえるのは、とても嬉しい。けど今は、それどころではない。


「ごめん、紗耶ちゃん。ちょっと鏡で確認してくる」


 そう言って紗耶ちゃんの返事も待たず、洗面所に向かう。


「ほんとに、赤い……」


 紗耶ちゃんの言った通り、右目も左目と同じように赤くなっている。それは疲れで目が充血してるとかそういうのではなく、瞳の色素の色が変わっている。



 それこそまるで、シロやクロと同じ神様のように瞳が赤く染まっている。



「……クロとの同化が進んでる証拠か?」


 それならそれで、納得できる。……けど、紗耶ちゃんに言われるまで気がつかなかったのは、少し間抜け過ぎる。


「何にせよ、もうあまり余裕はないんだろうな」


 こうして見比べてみると、右目の方がまだ少し色素が薄い。だからあと2、3回なら、大丈夫なのかもしれない。けど逆に言えば、もうそれくらいしか猶予はないということだ。


 なら俺は──。



 そこでふと、聴き慣れたチャイムの音が響いた。



「……あさひか」



 時刻はまだ、朝の6時過ぎ。こんな時間に訪ねてくる奴なんて、それくらいしか思い浮かばない。


「お兄ちゃん、誰か来たよ?」


 不安そうな顔をした紗耶ちゃんが、洗面所にやって来る。


「うん。ちょっとお客さんが、来たみたいだね」


「……うん」


「俺はちょっとその人と話をしてくるから、紗耶ちゃんは俺の部屋で待っててくれるかな?」


 紗耶ちゃんの瞳を真っ直ぐに見つめて、できる限り優しい笑みでそう告げる。


「……一緒にいちゃ、ダメ?」


「ごめんな。でもすぐに終わらせるから、少しだけ待っててくれるか?」


「……分かった。約束だよ?」


 紗耶ちゃんは意外と素直にそう言って、そのまま俺の部屋へと戻っていく。俺はそんな紗耶ちゃんが部屋に入るのを確認してから、玄関に向かい扉を開ける。



「……え?」



 するとそこにいたのは、あさひではなく彼女──汐見 奈恵さんで、彼女は心底から楽しそうな笑みを浮かべて、その言葉を口にした。



「──やぁ、未白くん。困っているだろうから、助けに来たよ?」


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