第37話 はじめまして。
「……ふぅ。とりあえず、こんなもんか」
自室の床に座り込んで、大きく息を吐く。
あのまま寝かしておくわけにもいかないので、まずはクロをクロの部屋のベッドまで運んで、それから紗耶ちゃんを俺のベッドに寝かせた。
2人とも軽いからそんなに辛かったわけじゃないけど、色んなことがあったから少し疲れてしまった。
「さて、これからどうするか」
とりあえず、紗耶ちゃんが持っていたナイフは預からせてもらった。……それに一応、悪いとは思ったけど身体を調べさせてもらい、他に凶器がないかも確かめた。
幸い紗耶ちゃんは、他に凶器になりそうなものを持っていなかった。なので目を覚ました紗耶ちゃんがまた暴れ回ったとしても、俺1人で取り押さえることができるだろう。
……もっともそれは、俺が正気を保っていられればの話だが。
「…………」
紗耶ちゃんの寝顔をいくら見つめても、さっきのような狂気は感じない。……あの、まるで自分が自分じゃなくなったような感覚は、今はもうすっかり消えてなくなった。
「赤く、染まった」
自分の全てが赤く染まって、何も考えられなくなるあの感覚。あれは一体、何なのか。そもそも紗耶ちゃんは、どうして俺しか覚えていない筈のループの出来事を、知っているのか。
そして何より、これからどうすればいいのか。いくら考えても、解決策は一向に見つからない。
「誰かに頼りたいなんて思うのは、甘えなんだろうな」
そもそも、誰より頼れるクロは眠ってしまった。……いや、仮にもし目を覚ましたとしても、無理はさせられないだろう。
「なら今の俺にできることは、1つしか──」
「あれ? ここ、どこ?」
そんな風に考え事をしていると、ふと声が響いて紗耶ちゃんが目を覚ます。
「おはよう、紗耶ちゃん。身体の調子は、どう?」
腰を浮かせて、どんなことがあっても対応できるよう気を張りながら、そう言葉を告げる。
「…………」
でも紗耶ちゃんはそんな俺とは対照的に、惚けたような顔で、ぼーっと辺りを見渡す。
そして紗耶ちゃんは、そんな焦点の合わない瞳のまま、とんでもないことを言ってのけた。
「……あの、私は誰ですか?」
「────」
貴方は誰ですか? なら、まだ理解できる。そもそも今の俺と紗耶ちゃんは、まだ出会っていないのだから。でも彼女は、私は誰? と言った。
……意味が分からない。
「……君は、冬乃江 紗耶。俺の後輩……なんだけど、本当に何も覚えてないの?」
「はい。ごめんなさい。本当に何も、覚えてないの」
「……そっか」
それ以上、何も言えない。意味が、分からない。知らない筈のループの出来事を知っていた紗耶ちゃんは、目を覚ますと自分の名前すら忘れていた。
なんなんだよ、ほんとに。
「でも、あなたのことを見てると凄く安心する。……まるで、お兄ちゃんみたい」
「お兄ちゃんって。家族のことは、覚えてるの?」
「……ううん。でもあなたは、お兄ちゃんだよ!」
紗耶ちゃんはそう言って、とても無邪気な笑みを浮かべてみせる。
「…………」
対する俺は、笑うことなんてできない。俺は紗耶ちゃんの家族構成を、詳しく聞いたことなんてない。だからもしかしたら紗耶ちゃんには、本当にお兄さんがいるのかもしれない。
……でも、お兄ちゃんなんて言葉を聞くと、どうしてもあいつのことを思い出してしまう。
「いや、今はそれより、この状況をどうにかしないと」
記憶が混濁しているなら、まずは病院に連れて行かなければならない。……可能性としては低いが、クロのあれで脳に何か異常をきたした可能性もある。
……いやでも、記憶が戻ればまたあの狂気で俺を殺そうとしてくるかもしれない。なら何の策もなしに記憶を戻すのは、危険だろう。
「……って、何してるの?」
目の前までやって来た紗耶ちゃんに、そう問いかける。
「お兄ちゃん。なんだか困ってそうだから、慰めてあげてるの」
「そっか。でも俺は、君のお兄さんじゃないよ?」
「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだよ!」
紗耶ちゃんはそう言って、俺の頭を撫でてくれる。……その姿はいつもの紗耶ちゃんとかけ離れていて、どうやら本当に記憶を失くしてしまっているようだ。
「……ありがとう。紗耶ちゃんお陰で、元気が出た。だから少し、話をしようか」
「うん。いいよ」
「まず、君の名前は冬乃江 紗耶っていうんだけど、その名前に心当たりはある?」
「それが、私の名前なんだっていうのは分かるよ? でも、それだけ」
「なら、今自分が何歳か分かる?」
「……分かんない」
「自分の家の場所は、分かる?」
「分かんない」
「7+6は?」
「13!」
「日本の首都は?」
「東京!」
「俺の名前は?」
「お兄ちゃん!」
「…………」
どうやら紗耶ちゃんは、自分に関する記憶を失くしているようだ。記憶喪失についての知識なんてないに等しいが、強いストレスを受けるとそのストレスに関することを、思い出せなくなる。そんな話を、聞いたことがある。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「だから俺は、お兄ちゃんじゃないって。……俺の名前は、久折 未白。一応、君の先輩だ」
「お兄ちゃんは、お兄ちゃんなの!」
「……ならもう、それでいいや」
そんなことでやり合っても、仕方ない。それより……それより本当に、どうしよう? 一度死んで、初めからやり直したいと思ってしまうくらい、訳の分からない状況になってしまった。
……でも、クロの状態を考えると、そんなことをする訳にもいかない。そもそも死んだらまた、同じことになるかもしれない。なら今は、できることをやるべきだ。
「お兄ちゃん。ぎゅーって、して?」
「……抱きしめて欲しいってこと?」
「うん。なんかちょっと寂しくなっちゃったから、お兄ちゃんに癒して欲しいの」
「……分かった。ほら、ぎゅー」
「ふやー」
言われた通りぎゅっと抱きしめてやると、紗耶ちゃんは気持ちよさそうに目を瞑る。
「お兄ちゃん。好き。大好き!」
「ありがと。でも俺はこれからやらなきゃいけないことがあるから、紗耶ちゃんはこの部屋で少し待っててくれるか?」
「やだ。私、お兄ちゃんの側にいる」
「でも紗耶ちゃん、お腹減っただろ?」
「……うん。お腹、減った」
「俺はそんな紗耶ちゃんの為に、ご飯の準備をしなきゃいけない。だから紗耶ちゃんは、ゲームとか漫画とか好きに使っていいから、少しだけここで待っててくれるかな?」
「…………分かった。でもすぐ、戻ってきてね?」
「ああ。約束する」
紗耶ちゃんの頭を軽く撫でて、部屋を出る。そしてそのまま早足で、クロの部屋へと向かう。
「やっぱりまだ、寝てるか」
しかしクロはまだ、眠っていた。……本当は彼女と話がしたかったけど、やっぱりそれは無理らしい。
「なら本当に、飯の準備でもするか」
今はもう、昼過ぎだ。思えば朝から、何も食べていない。ならこれから何をするにしても、まずは食事をしないと身体が持たないだろう。
そう考え、クロの部屋を後にしてそのまま台所に向かう。
……けどその途中、とあるものが落ちているのを見つけてしまう。
「これは……」
俺と紗耶ちゃんが、もみ合いになった場所。そこにはどうしてか、あのメモ帳が落ちていた。
「…………」
拾って、中身を確認してみる。……けど中身は相変わらず、どうでもいいような日常が羅列しているだけだ。
「いや、ちょっと中身が変わってるのか」
落としたのが、消しゴムから鉛筆になっていたり。食べたお菓子が、シュークリームからショートケーキになっていたり。そんな小さな変化はあるが、やはりメモの内容はどうでもいいようなことばかりだった。
「……いや、これは……」
……でも、最後のページ。前回は『赤』とだけ書かれていたその場所に、今回は全く別のことが書かれていた。
『冬乃江 紗耶を信じるな』
まるで、今の俺に向けられたであろう、そのメッセージ。そんな冷たい言葉を前に、俺はまたしばらく動くことができなかった。
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