第36話 会いに来ましたよ。



「開けてください、先輩。先輩の大好きな、私が会いに来ましたよ」



 聴きなれたチャイムの音と一緒に、そんな声が響く。


「……どうなってんだよ」


 俺の頭は、そんな想定外の事態に完全に真っ白になってしまう。


 紗耶ちゃんが、うちに来た。今の紗耶ちゃんは俺の家の場所を……いや、俺の名前すら知らない筈だ。なのに彼女は、当たり前のようにこの場所にやってきた。



 ……意味が、分からない。



「先輩? 居るんでしょ? 出てきてください。私、先輩と話したいことがいっぱいあるんです」


 どんどんと、扉を叩く音が響く。


「……出るしか、ないよな」


 ……そう思うのに、身体が動いてくれない。恐怖……というより困惑で、何をすればいいのか分からなくなってしまう。


「クロに……いや、無理か」


 これだけ大きな声が響いて、チャイムが何度も鳴っているのに、クロが起きてくる気配は全くない。きっとクロは、それほど深い眠りについているのだろう。 



「なら、俺が行くしかないか」



 自分に言い聞かせるようにそう呟いて、ゆっくりと玄関の方に向かう。


「あれ? 先輩。もしかして、私のこと無視するんですか? あんなに私のこと好きだって言ってくれたのに、やっぱり先輩は──」



「おはよう。随分と、早いね」



 扉を開けて、そう言葉を投げかける。すると紗耶ちゃんは、いつもと何も変わらない表情で、はにかむように笑う。


「おはようございます。未白先輩。すみません。こんなに早くに、訪ねてしまって。でも私、どうしても我慢できなくて……」


「……どうして俺の名前を知っているのか、訊いてもいいかな?」


「……? そんなの、決まってるじゃないですか。先輩が私を助けてくれた時に、教えてもらったんです」


「俺が君を助けたって、それはいつの話だ?」


「そんなの……って、あれ?」


 紗耶ちゃんはその問いの答えが分からないのか、困ったように小首を傾げる。


「……まあそんなこと、どうでもいいじゃないですか。それより私、こうしてまた先輩に会えて嬉しいです!」


 紗耶ちゃんはそう言って、勢いよく俺の身体に抱きつく。……避けようと思えば避けられた筈なのに、どうしてか身体が上手く動かなかった。


「……幸せです。こうやって先輩を抱きしめると、本当に本当に幸せで……泣きそうになる」


「…………」


「先輩も気持ちいいですよね? 私の胸、大きいから好きだって言ってくれましたもんね? ……いいんですよ? 触りたいなら、好きにして。だって私はもう、先輩のものなんですから」


 紗耶ちゃんの大きな胸が、俺の身体に押しつけられる。それはぐにゃりと大きく形を変えて、溶け込むように俺の身体に張りつく。……でもどうしてか、全くドキドキしない。


「……そうです。先輩は、私のものなんです。私だけのものじゃないと、ダメなんです。なのにどうして先輩は、あんな変な女と同居してるんですか? どうして先輩は、私に会いに来てくれないんですか? ……ねぇ、先輩。どうしてなんですか?」


 瞳孔の開いた紗耶ちゃんの真っ赤な目が、真っ直ぐに俺を射抜く。


「…………」


 その目を見ていると、頭にずきりとした痛みが走る。


「私はこんなに、先輩のことが好きなのに。先輩だって、私のこと好きだって言ってくれたのに。どうして先輩は、私のこと抱きしめ返してくれないんですか? ねえ? ねえ? ねえ? どうしてなんですか? 先輩……!」


 紗耶ちゃんの腕に、力がこもる。壊れくらい激しい紗耶ちゃんの心音が、伝わってくる。……けど俺の心は、時間が経つ度に冷めていく。



 どうして紗耶ちゃんは、知らない筈のループの出来事を知っているんだ? ……またあさひが、何かしたのか? それとも紗耶ちゃん自身に、何か秘密があるのか?



 そんな疑問が、浮かんでは消えていく。消える度に、頭が冷めていく。そして頭が冷たくなればなるほど、 視界が……。



「どうして、何も言ってくれないんですか! ……やっぱり先輩は、私のことなんてもうどうでもいいんだ。なら私は、先輩を……!」



 紗耶ちゃんは当たり前のように、スカートのポケットからナイフを取り出す。それはいつかの時、俺を殺したのと同じナイフだ。



 ……でも、そんなのもうどうでもいい。



 だって、


 視界が


 真っ赤に染まる。



 このうるさい女を殺せと、俺の中で誰かが叫びをあげる。



「……くはっ」



 紗耶ちゃんを突き飛ばす。視界が、真っ赤に染まる。紗耶ちゃんは立ち上がり、俺を見る。その目は真っ赤に、染まっている。



 だから俺は、そんな紗耶ちゃんを助けなきゃって思った。



 だから、紗耶ちゃんを。



 紗耶ちゃん、を。



「──少し眠っておれ、小娘」



 その瞬間、背後からそんな声が響いた。そして視認できないほどのスピードで、何か小さなものが紗耶ちゃんの顎に当たった。


「……え?」


 すると紗耶ちゃんは、糸の切れた人形のように力なくその場に倒れ伏す。


「……クロ、か?」


「他に、誰がおるのだ」


「……だよな」


 クロの声を聞くと、強張っていた身体から力が抜ける。真っ赤に染まっていた意識が、ゆっくりと溶けていく。


「その娘は、少し眠らせておいた。傷はつけておらんが、しばらくは目を覚まさんだろう」


「ありがとな、クロ。……でもお前は、大丈夫なのか?」


「まあ、なんとかな。この娘がそういうものだと理解していれば、多少は抵抗できる。……それにこの娘はお前に夢中で、我まで気が回っておらんかった」


「そうか。まあなんにせよ、助かった」


「よい。……というより、こんな事態なのに呑気に眠っていて悪かった」


「いいよ。それよりこの紗耶ちゃん、どうしよう?」


 紗耶ちゃんは今は大人しく眠っているが、いずれは目を覚ますだろう。その時もまたあの狂気を見せられれば、正気でいられる自信がない。でもだからって、このまま放置するわけにもいかないだろう。



 なら、どうするか。



「……って、クロ!」


 そんな風に頭を悩ましていると、どうしてかクロも紗耶ちゃんと同じようにその場に倒れ込む。


「おい、クロ! 大丈夫か、クロ!」


「……そう、心配するな。少し眠るだけだ。実はまだまだ、寝不足なのだ……」


 クロはそう言って、そのままその場で眠ってしまう。


「ほんと、どうなってんだよ」


 規則正しい寝息を立てる紗耶ちゃんとクロの姿を見つめながら、そんなことを呟く。……でも、誰も答えを返してくれなくて、だから俺はしばらくその場で頭を悩ませ続けた。


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