第10話 そうして。
紗耶は最後に、ごめんと言った。それは彼女も、気がついていたからだ。こうやって死んでも、誰の為にもなりはしないと。ただ自分は、情けない過去から逃げ出したくて、死を選んだのだと。
故に、奇跡は起こらない。
物語では……いや現実であったとしても、奇跡とは手を伸ばした者に訪れるものだ。ダメだと分かっていても必死になって手を伸ばすから、誰かがその手を掴んでくれる。
けれど紗耶は、手を伸ばすことすら諦めた。だから誰も、その手を掴むことはできない。……そもそもこの廃ビルは、紗耶とその友達しか知らない秘密の場所だ。
だからいくら未白が走っても、この場所を見つけることはできない。
故にここには、ありふれた現実としての死だけが残る。奇跡や魔法なんてどこにもなくて、ただ辛い現実だけが2人の胸を切り裂く。
……紗耶はずっと、そんな風に思っていた。
「……なのに何で、この場所が分かったんですか! 先輩……!」
熱い叫びが、夜空に響く。
「……神様のお告げかな」
未白はそれに、当たり前のように言葉を返す。
「……な、何ですか……それ。……先輩は、ずるいです……!」
紗耶が夜空に踏み出す、少し前。一心不乱にビルの階段を駆け登った未白は、落ちる寸前で紗耶の背中を抱き締めた。だから宙に踏み出した紗耶の足は、夜空を蹴って地面に戻る。
「紗耶ちゃん。少しだけ、話を聞いてくれるか?」
紗耶の背中を抱き締めたまま、未白はそう言う。
「……分かり、ました。でも、手を離さないでください。……今だけでいいんです。本当に今だけで、構わないんです。先輩の側に、いさせてください……」
「……分かった」
淡い月明かりが照らす、静かな夜。ぽつぽつと、未白の声が独白が響く。
「俺は紗耶ちゃんのこと、言い訳に使ってたんだ。……何もできない自分から目を逸らす為に、俺は君に優しくした。……だから本当は、君のことなんてどうでもよかったんだ……」
ただ、誰かに頼られていたかった。惨めな自分を、見たくなかった。例え殺されることになったとしても、愛されるのが怖かった。
そんな風に、未白は自分の想いを吐露する。そして想いを口にすればするほど、紗耶を抱き締める腕に力がこもる。
「…………」
だから紗耶は、思ってしまった。
……この人を、守ってあげたいと。
「だから俺は、ダメな奴なんだよ。紗耶ちゃんが惚れるような価値はないと、今でも思う」
「それでも先輩は、私の憧れなんです」
未白の悲しみを断ち切るように、紗耶は真っ直ぐにそう言った。
「先輩の事情が何であれ、先輩は私を助けてくれた。泣いてる私の手を取って、笑ってくれた。色んなことを、教えてくれた。先輩が居たから、私は変われたんです。……今だって先輩が来てくれなかったら、私は……」
思えば未白は、一番大切なことを尋ねていない。どうして紗耶は、死のうとしたのか。それはきっと、今1番気になることの筈なのに、未白は決してそれを尋ねない。
そんな未白の優しさが、紗耶は何より好きだった。
「先輩が何と言おうと、先輩が私にしてくれたことは変わらない。先輩の優しさは、決して嘘にはならないんです。だから本当に駄目なのは、私の方……」
「……紗耶ちゃんは、駄目なんかじゃないよ。だって紗耶ちゃんは、俺と違って頑張ってる」
「でも私は……死のうとしました。今まで沢山、頑張ってきたのに。先輩や莉音さんが、私の為に頑張ってくれたって知ってるのに。なのに私は、自分の感情を優先して……死のうとした」
「…………」
未白は何も言わない。だから紗耶も、しばらく黙り込む。
ここまで全力疾走してきた未白の呼吸と心音が、少しずつ落ち着いて行く。そして、死を前にして壊れるくらい強く高鳴っていた紗耶の心音も、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。
未白と紗耶。2人はとても、似ていた。自分に自信がなくて、他人に依存して、そのことから目を逸らす。
そんな関係の行き着く先を、未白もう知っている。あの結末は紗耶の狂気だけがもたらしたものではなく、2人の弱さが作り出したものだ。
そのことに気がついた未白は、紗耶から距離を置こうとした。でも紗耶のメモ帳を見て、この場所まで走って来た。
だって未白は……。
「紗耶ちゃん。悪いんだけど、メモ帳……勝手に見ちゃったんだ」
「……え? ええっ!? あ、あれ見ちゃったんですか!」
「うん、ごめんね。……でも凄く、嬉しかった。こんな俺でも君の力になれてたんだと分かって、本当に……嬉しかった」
背中から抱きしめられているから、未白の表情は窺えない。けれど紗耶には、未白のドキドキした心音が伝わっていた。だから気づけば、落ち着き始めていた紗耶の心臓もドキドキと高鳴る。
「だからさ、紗耶ちゃん。俺はどうしても、伝えたかったんだ。明日でも明後日でも構わないのに、どうしても今すぐ……君に伝えたかった」
月光が降り注ぐ、静かな夜。お互いの心音だけがただ響くそんな夜に、その未白の言葉がただ響いた。
「紗耶ちゃん。俺は君が、好きだ」
「────」
その言葉は完全に想定外で、紗耶の頭は真っ白になってしまう。
「ついさっき振っておいて、今更こんなこと言うのは気に入らないかもしれない。……でも、思ったんだ。あのメモを見て、今までの紗耶ちゃんを思い出して、こうやって君を……抱きしめたいと思った」
「……本当ですか? それは、ほんとのやつですか?」
「ああ。嘘じゃないよ」
「……そうですか。……そう、なんですか」
紗耶は顔を真っ赤にして、うつむく。今でも紗耶は、未白のことが大好きだった。だからその未白の言葉が何より嬉しくて、もう……我慢できなかった。
「紗耶ちゃん。もしかして、泣いてるの?」
「……嬉しいんです。嬉しくて嬉しくて、涙が……止まらないんです……! だって先輩の心臓、凄くドキドキしてる。目を見なくても、先輩の想いが……伝わってくるんです!」
「……そっか。伝わったなら、よかったよ」
2人はただ、身を寄せ合う。今はそれ以上、何も要らなかった。まだまだ知らないことは沢山あって、やらなきゃいけないことも山ほどある。
……けれど今はただ、そうやってお互いの体温を感じていたかった。
それが何より、幸せだった。
「……そういえば、先輩。どうしてここが、分かったんですか? この場所のこと、先輩には言ってなかったですよね?」
思い出したように、紗耶は呟く。
「……ただ、思い出しただけだよ。いつかの紗耶ちゃんが、ここのことを楽しそうに話していたなって」
紗耶にはその言葉の意味が、分からなかった。……でも背中に感じる温かさが気持ちいいから、余計な疑問は飲み込むことにする。
「先輩。私は先輩が、好きです」
紗耶は代わりに、そう言った。
「俺も紗耶ちゃんが、好きだよ」
そして未白は、そう言葉を返す。たったそれだけで、全ての問題を忘れてしまうくらい、幸せだった。
……でも、だから2人は気がつかなかった。
背後から忍び寄ってくる、1人の人物に。
「そんなの、認めない」
背後から現れた人影が、勢いよく2人の背中を突き飛ばす。
「……え?」
だから2人はバランスを崩して、フェンスの隙間へと吸い込まれていく。まるで初めから、こうなることを想定していたかのような見事な手際で、2人は屋上から突き落とされた。
「……なんで」
そんな未白の言葉が、最後に響いた。
そうして今日、6月14日。久折 未白と冬乃江 紗耶は、当たり前のようにこの世を去った。
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