第2話 お休みなさい。
6月25日。
「わざわざ来て頂いて、ありがとうございます! 久折先輩!」
紗耶ちゃんは元気いっぱいな笑顔で、ぺこりと頭を下げる。
「別にいいよ。紗耶ちゃんの家、学校から近いしね」
俺は軽く笑って、そう言葉を返す。
「それでも私、嬉しいです! まさか本当に来てくれるなんて、思ってませんでしたから」
「そこまで大袈裟に喜ぶことでもないだろ? ただ家に遊びに来たって、だけなんだからさ」
俺はそう言って、紗耶ちゃんが淹れてくれた濃いコーヒーを口に運ぶ。
放課後。今日はいつもの空き教室ではなく、紗耶ちゃんの家にやって来た。なんでも今日は今までの恩返しがしたいらしく、緊張した様子の紗耶ちゃんに『来て下さい!』と、誘われた。
「でも、紗耶ちゃん。ご両親が居ないのに、俺が来てもよかったの?」
「今更なに言ってるんですか。そんなの私、気にしませんよ? 私と先輩の、仲じゃないですか」
「それは確かに、そうだね。もうかれこれ1ヶ月も、ずっと会話の練習をしてきた仲だしね」
「そうです。それより先輩。……隣に来てもらっても、いいですか? ちょっと、お願いしたいことがあるんです」
紗耶ちゃんはベッドに腰掛けて、恥ずかしそうにこちらを見る。
「別にいいけど、俺がベッドに座ってもいいの?」
「いいに決まってます。それより早く、来てください。じゃないと私、もう……」
「分かってるって。だからそんな泣きそうな顔しなくても、大丈夫だよ?」
紗耶ちゃんはまだまだ、泣き虫だな。なんてことを考えながら、紗耶ちゃんの隣に腰掛ける。するとふわっと、甘い香りが漂ってくる。
「……久折先輩」
「今日はやけに、甘えてくるね」
俺がベッドに座った直後、紗耶ちゃんは甘えるように俺の肩に頭を乗せる。
「ずっと、夢だったんです。こうやって先輩の肩に、頭を乗せて甘えるの。……ようやく夢が、叶いました」
紗耶ちゃんは何かを堪えるように、膝と膝を擦り合わせる。……その仕草が妙に色っぽくて、なんだか悪いことをしてる気になってしまう。
「覚えてますか? 先輩。先輩と私が、初めて会った時のことを」
「……ああ、覚えてるよ。たった1ヶ月前だからね」
「高校に入学してから、私はずっといじめられてました。……けど立ち向かう勇気がなかった私は、どうすることもできなかった」
でも、と紗耶ちゃんは言葉を続ける。
「でもそこに、先輩が来てくれた」
「偶然だけどね」
放課後。面倒な課題を紗耶ちゃんに押しつけて、楽しそうに笑っている奴らを見つけた。なので俺は、そいつらをボコボコにした。それが俺と、紗耶ちゃんの出会い。
「あの時の先輩、かっこよかったなぁ。……本当に、かっこよかった」
紗耶ちゃんは熱い吐息をこぼして、真っ直ぐに俺を見つめる。
「……キス、したいです」
「……え?」
紗耶ちゃんが何を言っているのか分からなくて、思わず変な声が出てしまう。
「ふふっ。そんな声出さなくても、大丈夫ですよ? 実はお父さんとお母さん、仕事でしばらく帰ってこないんです。だから今日は、好きなだけイチャイチャできますよ?」
そのまま紗耶ちゃんは、俺の身体を抱きしめる。だから紗耶ちゃんの大きな胸が、惜しげもなく俺の身体に押しつけられる。
「……本当はずっと、こうしてみたかった。こうやって抱きしめて、先輩を独り占めしたかった……。はぁはぁ。先輩、温かくて気持ちいい……!」
背中に回された手に、力がこもる。だから俺は、逃げることもできない。
「いや、紗耶ちゃん? 確か今日は、今までのお礼をしてくれるって言ってたよね? ……いや、もしかしてこれが、そのお礼なの?」
「そんなのただの、方便ですよ? ……本当はただ付き合った記念に、先輩を家に誘いたかっただけなんです」
「……え? 付き合った記念って、なに?」
「ふふっ。先輩でもそうやって、照れたりするんですね。……昨日はあんなことまでしたのに、忘れたなんて言わせませんよ?」
「……いや、忘れたんだけど」
俺がそう言うと、紗耶ちゃんの瞳から色が抜ける。
「そういう冗談は、嫌いです。流石の私でも、それはちょっと傷つきます」
「いや俺は──」
「……ほら、先輩の大好きな胸。こうやって押しつけてあげます」
紗耶ちゃんはそう言って、ぐにゃりと形が変わるほど強く、胸を押しつけてくる。けど今は、それどころではない。
「ごめん。紗耶ちゃん。もしかして昨日のあれで……」
「うるさいです!」
紗耶ちゃんは、叫んだ。それで俺はようやく、今までの自分の軽率さに気がつく。
「今更、勘違いだったなんて認めません。……先輩は誰にでも優しくするなんて、そんなの認めません。私だけが、特別なんです。そうじゃなきゃ、ダメなんです」
そこで紗耶ちゃんは、俺にキスをする。相手の都合なんて考えない、貪るだけの一方的なキス。そんなキスを、紗耶ちゃんは俺に押しつける。
「────」
だから流石に俺も、紗耶ちゃんを振り払おうとする。きっと俺が悪いのだろうけど、このままなすがままにされるわけにも、いかないから。
「……あ、れ?」
でもどうしてか、身体に力が入らない。だから俺は、ただただ唇を貪られ続ける。
「先輩。可愛い。可愛い。可愛い。可愛い。……大好き」
紗耶ちゃんは俺を、ベッドに押し倒す。俺はもう、声を出すことすらできない。
「大丈夫ですよ? 先輩。私は絶対に、先輩を傷つけたりしません。……だから今だけ、私のわがままを受け入れて下さい」
どこで何を、間違えたのか。今の俺には、何も分からない。……いやきっと、今までずっと間違い続けてきて、それが今……結果として表れたのだろう。
……だからもう、逃げられない。
「……愛してますよ? 先輩」
紗耶ちゃんは真っ直ぐに俺の目を見つめて、そう言った。
「…………」
そういえばさっき飲んだコーヒー、やけに苦かったな。そんなどうでもいいことを、最後に思った。そうして俺の意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。
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