第18話 喜怒哀楽は忙しく
「……帰らないと」
どれだけの時間ぼんやりとしていたのだろう。奏は時間の感覚がおかしいことに気づいた。
晴れ渡っていた空はどんよりと曇り、パラパラと雨粒が奏の全身を濡らしている。
こんな所にいつまでもいたら風邪をひきそうだ。そんな事になったらリゼットに叱られてしまう。
奏はノロノロと動き出す。
(あれ? ここどこだろう?)
部屋に戻ろうと思っていたのに迷ってしまった。中庭からどうやってこんなところに迷い込んだのか、途中の記憶がない。
(どこまで続いているんだろう)
奏は目の前にそびえたつ巨樹を見つめた。見上げても天辺が見えない。
(木登りってしたことないけど……)
今なら登れるような気がした。
奏はおもむろに手を伸ばして巨樹に触れた。かすかに温もりを感じる。
最初の一枝は、奏の頭上よりかなり高い位置にあるが、飛びつけないことはなさそうだ。
地面を蹴ると簡単に届いた。もう少し上を目指してみよう。
(さすがにこれ以上は無理かな)
奏は頂上まで登ることを諦めて、途中で太い幹に身体を預ける。
先程から降る雨は激しくなっている。ここで雨宿りをしていくのもいいかも知れない。
奏は眩暈を感じて眼を閉じる。
(最初から誰も好きになるつもりがない)
唐突にフレイに言われた言葉を思い出して奏の身体が震える。答えることができなかった心の奥底に秘めた想いがこみあげてきて胸が苦しい。
(大切な人は作れないよ。元の世界に帰るつもりなのに誰かを好きになるなんてできないよ!)
大きな秘密を抱えたままで、どうしてフレイの気持ちに答えられるというのだろうか。そんな資格は最初からない。
この世界の人たちを自分の都合だけで騙しているのだから。
(死ぬのは怖い。でも、帰らないといけないよね……)
それはきっと、それほど遠い未来ではない。
「ううう……」
歯を食いしばっても嗚咽が漏れてしまう。
(もう少しでいいからここにいさせて……)
奏は、唯一自分の信じる神に願った。
大雨はそれほど長くは続かなかった。それでも名残の雨は、奏を覆っている巨樹の葉を濡らしていく。
ヒタヒタヒタヒタ
奏は人の近づく気配に身体を強張らせた。生い茂った葉は身を隠してくれているが、すこしでも動けば気づかれそうなほど近くに迫っている。
「───様?」
奏のいる位置からはその人物が見えない。呼びかけられたようだが、奏は無視する。
「そこにいるの?」
奏は苛立ちを覚える。誰かはわからないが放っておいて欲しい。
「私はここにいたいの! 邪魔しないで!」
相手は奏の剣幕にたじろいだのか遠ざかっていく。
奏はホッと身体の力を抜く。今は誰であろうと話したくなかった。
突然、ザザザッと巨樹の葉を揺らす音がした。
膝を抱えていた奏に濃い影がかかる。
「カナデ様」
「え?」
スリーの声が頭上から聞こえてきた。奏が反射的に見上げると、一段上の枝にスリーが立っていた。
「ずいぶん高いところにいるね」
奏は呆気にとられ口をパクパクとさせる。スリーが何故ここにいるのだろうか。幻にしてはリアルだ。
スリーは高いところが苦手なのか、少し落ち着かない様子でいつもより会話がぎこちない。
無表情でいることが多いスリーにしては珍しく、どこか不安そうにしている。
「そっちに移動していい?」
ミシミシという枝の軋む音が聞こえはじめると、スリーの声に焦りが滲む。スリーの重さに耐えきれない枝は今にも折れそうだ。
「揺れたらごめんね」
奏の了承を待たずにスリーが移動してくる。奏が座っている枝は二人の体重を支えられるほどに太い。揺れもスリーが心配するほどは感じなかった。
「はぁ、びっくりした。折れるかと思ったよ」
「あの、どうして……」
スリーが近くに来て、幻でもなく本物という実感が、ようやく奏の中に芽生えた。それと同時に疑問が生まれる。
「カナデ様が降りられないかと思ってね」
それは「迎えに来た」と言っているのだろうか。それとも救助のつもりなのか。スリーの言葉は説明不足で奏にはよくわからない。
「飛び降りればいいと思うけど」
「この高さを?」
「そんなに高くは……」
奏は視線を下へ向ける。「高くはない」と言いかけて固まる。知らず知らずに飛び降りるには不安を感じる高さまで登ってきてしまった。
「ちょっと無理かも」
「だから迎えにきたよ」
スリーの頼もしい言葉に奏は安堵する。任せておけば大丈夫そうだ。
「どうやって降りるの?」
「無理はしないよ。カナデ様を抱えてだからね」
スリー両腕を広げて奏を促す。もしかしなくてもこれは、奏から抱き着けという待ち体勢なのだろうか。
「ええと、肩に手を置くくらいでいい?」
奏は照れ臭くなり視線を彷徨わせる。スリーに抱きつくなんてできそうにない。
「安定しないから危ないよ」
スリーは腕を広げたままだ。奏は諦めてスリーを窺う。
「……どうすればいいの?」
「俺の首の後ろに腕を回してしがみついて」
スリーの指示に奏はたじろぐ。スリーに密着したと知れたらリゼットが黙ってはいない。
「リゼットに誤解されるよ!」
「怒られるよりはマシじゃないかな」
「……そうですね」
スリーにしがみつく羞恥心と、リゼットに怒られる恐怖心を天秤にかけて、どちらがマシとは言えない。
究極の選択を迫られている。自分の蒔いた種だとはいえ心臓が持つか自信はない。
奏はスリーを目の前に、もじもじとしてなかなか決心がつかない。
(どうしよう、すごく緊張する……)
奏の緊張が伝わったのか、スリーも困っているようで動かない。
「カナデ様、好きな相手だと思って?」
「と、飛び降りる!」
口から心臓が飛び出そうだ。そんなことを言われたら余計に意識してしまう。スリーは考える素振りを見せた後、変わった質問をしてくる。
「カナデ様が癒される生き物は?」
「犬」
「じゃあ、それだと思って」
「犬と思え」と言われても一度意識してしまえば覆すのは難しい。それにスリーの言動は犬というより猫を連想させるので、奏は唸りながら考え込んでしまう。
「……仕方ないね。その生き物は鳴いたりする?」
「わんわん……」
「へぇ、面白い鳴き声だね。真似したら少しは平気になるかな……」
「え?」
「『わんわん』。カナデ様、こっちにおいで」
スリーは至極真面目だ。無表情と棒読みのコラボレーションは、奏の笑いのツボを刺激する。緊張がわずかだが和らぐ。
「ふふふ」
「確保成功。カナデ様、腕はこっちに」
奏の緊張が和らいだ瞬間を狙って、スリーは奏を片腕に抱き上げた。不安定さを補うために腕を首に回すように指示する。
奏はその早業に無抵抗だ。至近距離にスリーを感じたが、犬の鳴き真似が相当ツボに嵌ったのか、身体を震わせて爆笑するのを堪えている。
「そんなに笑っていて舌を噛んでもしらないよ」
「あはははは!」
「……しっかりしがみついていてね」
奏は笑いが収まらず返事が返せない。
スリーはそれに構うことなく、奏の腕に力が入ったことを確認すると、迷わずに足元の枝を蹴って跳躍する。
目測で枝を追う。二人の体重を支えられるだけの太い枝をスリーは掴む。落下する速度は殺しきれなかったが、勢いのまま手を離すと、巨樹に寄り添うように立つ木が目の前に迫る。
スリーは焦ることなくその幹を足で蹴り飛ばした。上方向を意識して威力を込めると落下の勢いがわずかに弱まる。
奏の身体が勢いでぐらつくが、スリーは両腕で奏を強く抱き寄せる。そして、危なげなく着地する。
「っ!」
奏は恐怖のあまり放心していたが、無事に降りられたと悟ると、ポカポカとスリーの頭を叩きはじめる。
「ちょ、カナデ様!?」
震える奏の拳ではたいして威力もなかったが、スリーに精神的ダメージを与えるには十分だった。
スリーは無抵抗で奏の暴挙を受けとめる。
「こ、こわかっ……」
奏は涙ながらに訴えた。飛び降りるだけならまだしも、折れそうな枝に掴まって手を離した時は、意識が飛びそうになるし、目の前に木が迫れば生きた心地がしなかった。
それから恐怖で心臓がバクバクするだけではなく、スリーに抱き寄せられて隙間もないほど密着してしまうと、心臓の暴走は致死レベルに達していた。
恐怖と羞恥でわけのわからない状態になって、まだ身体に力が入らない。
「泣かないで……」
「ひ、ひどっ」
「俺が悪かったから、お願いだから落ち着いて」
スリーは必死で宥めるが、奏はなかなか落ち着いてくれない。精神的に参っていた所に、かなりのダメージを与えられた奏は、もはや自分では気持ちをコントロールできなくなっていた。
「……カナデ様、ちょっと移動するからね」
情緒不安定なカナデを抱き上げたまま、スリーはゆっくりと歩きはじめた。
スリーは巨樹から少しだけ奥に位置した温室へ奏を連れて行く。そこは巨樹を管理している庭師が憩いの場として作った場所だった。城内にありながらあまり知られていないが、誰でも気軽に訪れることを許されている。
小さな温室だったが色とりどりの花々が咲き乱れる様は圧巻で、一部の騎士たちは恋人との逢瀬の場所として重宝しているのだ。
それでも何組かの恋人達が同時に訪れると、小さな温室は窮屈に感じてしまう。そのため、先客がいる場合は邪魔をしないというのが暗黙の了解となっていた。
今日は、まだ降り続いている雨で誰も訪れてはいないようだ。
その小さな温室には庭師の趣味なのか、簡易ではあるがお茶を楽しめるようにテーブルと椅子が置かれていた。
スリーはその椅子へ奏を座らせる。
いまだに身体を震わせている奏を見つめて表情を曇らせる。
配慮が欠けていた。騎士たちと同じように訓練をしているからといって、雑に扱っていいわけではない。
どうしたら奏に元気を取り戻して貰えるだろうか。
考えあぐねていたスリーだったが、あることを思い出して懐を手で探る。目当ての物を見つけて取り出した。
ビリッ!
突然の大きな音と同時に、奏の膝の上に色鮮やかで小さな物が沢山転がり落ちてきた。
驚きで身じろぎすると、いくつか地面へ落ちてしまう。
「あ……」
スリーの微かな声に奏は顔を上げた。スリーの顔には「失敗した」という表情が浮かんでいる。
スリーが手にしている何かの包み紙は無残に割かれていた。開けようとして勢い余って破いてしまったようだ。
緊張感が薄れるようなことばかりするスリー。故意なのか天然なのか、奏には区別がつかないが嫌な感じはしない。
それほどスリーのことを知っているわけではなかったが、機嫌を取ろうと失敗しているところがとても彼らしいと奏は笑みを浮かべる。
「カナデ様、足りない?」
スリーは何を思ったのかそう言うと、踵を返して温室を出ていこうとする。奏は慌ててスリーの手を掴んで引き留めた。
「妹の分がまだあるはず……」
「え! それは貰えないよ!?」
「また買ってくればいいだけだから」
奏の手を外そうとスリーが手を伸ばす。それを阻止しようと奏がスリーのもう一方の手を掴む。両手を握り合うというおかしな構図になって、二人はハッとして眼を見交わした。
「お詫びをしたいのに……」
「もういいから!」
「だって『怖かった』って……」
「いや、そもそも私が調子に乗って高いところに登ったから!」
真面目な人なのだろう。怖がらせたことをかなり気にしている。奏が許してもスリーは自身を許していない。
「本当にお詫びはいいので」
「俺は優しくするとつけあがるよ」
いまだに握り合っている手をスリーにギュとされる。「つけあがる」という言葉の意味を理解して奏は赤面する。お陰で手を離すタイミングを逃してしまう。
「……お詫びは別の形でお願いします」
「カナデ様のお願いなら何でも叶えるよ」
「手を離して」
スリーが慌てて手を離す。スリーの温もりが去り、奏は少し残念な気持ちになる。それを誤魔化すように奏は話題を変える。
「リーゼンフェルトさんは妹さんがいるんだね」
「そんな他人行儀な呼び方するの?」
他人行儀はお互いさまではないだろうか。様づけのほうがよっぽど他人を意識させる。
こうして一緒にいるのに微妙な距離感が嫌で、奏は思い切ってスリーにお伺いを立てる。
「カナデって呼んでくれる?」
「いや、それは……」
スリーの眼が泳ぐ。
「私のお願いを聞いてくれないの?」
「参ったな」
「嫌なら嫌って……」
奏は悲しい気持ちになる。少しは親しくなったと思っていたのに……。
「嫌なわけじゃないよ……」
スリーは言葉を濁す。
とても残念な気持ちではあったけれど無理強いはできない。奏は、これ以上スリーを困らせても仕方ないと気持ちを切り替える。
「妹さんはどんな人?」
「兄を顎でこき使う可愛い妹だよ」
「ええ?」
「冗談だよ。土産を強請るくらいは可愛いものだよ」
「スリーさんは、いいお兄さんなんだね」
妹に振り回されているスリーを想像して奏はくすりと笑う。
「カナデ……様。そんなに褒めたら俺はつけあがるよ」
「今日のあれは褒められたことじゃないから!」
「ごめんね。あれで簡単に登れたから大丈夫だと思ったんだけどね」
一体この人はどういう登り方をしたのだろう。奏は遠い目をする。想像するとあり得ない方法しか浮かばない。
(まさかね……)
世の中には知らなくていいことが沢山ある。これもその一つと思うことにした。
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