エロスの気紛れ

水樹詠愁

エロスの気紛れ

 よくよく考えたら、運のない人生だった。子供時代は、優しい両親のおかげで、なに不自由なく育った。でも、大学受験の頃から歯車が狂い始めた。自分で言うのも恥ずかしいが、高校の成績は常に上位で、有名大学にも余裕で入れると思っていた。しかし、人生何があるかわからない。本命の受験当日に体調を崩し、フラフラになりながら受験はできたものの、結果はもちろん不合格だった。仕方なく、滑り止めに受けた大学に入学した。

 人とのコミュニケーションは多少苦手だったが、その分、大学では勉強に打ち込んだ。理工系の学部だったのでIT系の資格も取ったし、就職で挽回するつもりだった。しかし、世の中そんなに甘くない。就職試験では最終面接までは行くものの、内定がなかなか取れなかった。最終的には、スマホゲームを作るベンチャー企業に就職できたが、この選択が更に人生を狂わせることになった。入社前の説明では、スキルさえあれば、成果や能力に応じて給料が上がるはず…だった。しかし、深夜残業は当たり前。しかもそのほとんどがサービス残業。さらに、上司の失敗の尻拭しりぬぐいはいつものこと。最後は、上司の失敗の責任を押し付けられ、職場をクビになった。

 仕事の引継ぎを終え、私物を整理してから、会社を後にした。すでに時間は退社時間を2時間も過ぎていた。

「最後の最後まで残業かぁ」

 こんなブラック企業には何の未練もないが、これからどうして生きて行こうかと不安が頭をよぎった。青ざめた顔をして、肩を落として俯きながら歩く姿は、きっとゾンビのようにまわりには見えるだろう。しかし、行き交う人は誰一人として出来立てのゾンビには目を向けず、そこには何もいないかのように俺の横を通り過ぎって行った。

「そういえば、三日ぐらいまともな食事をしてないなぁ」と独り言が口に出た。ポケットをさぐると、隙間すきま時間に食べられるように、昨日コンビニで買っておいたチョコナッツ味のSOY JOYが出てきた。これでも腹の足しにはなるだろうと、袋を開けて食べようとすると、黒猫が前を横切った。

「不吉な予感・・・、って言うか、これって死亡フラグだろ」と心の中で毒づいた。

 よく見ると、黒猫は、金色に輝く眼光は鋭いものの、ひどく痩せこけていた。

「お前も食事メシにありつけなかったんだな。半分やるよ」といって、SOY JOYを投げてやった。これって猫が食べられるのか、と一瞬思ったが、黒猫はお節介なゾンビの心配を他所よそに、美味しそうに食べているように見えた。

 ふと我に返って、周りを見回した。会社の最寄り駅までのいつもの通勤路を歩いていたはずだが、入り組んだ路地に迷い込んだらしい。いつもの道に戻らなきゃと、道を探していると、薄暗い路地から不意に声を掛けられた。

「お兄さん、死にたいのかい?」

 恐る恐る声が聞こえた路地をのぞいてみると、そこには、優に80歳を超えたであろう小柄な老婆が、『占い(千円)』と書かれた小さな看板を置いた机を前にして、ちょこんと座っていた。

「猫のえさ御礼おれいに、無料で占って進ぜよう」と皺枯しゃがれた声で老婆が言った。

 あの黒猫は、このお婆さんの飼い猫だったのかと、黒猫と老婆のステレオタイプな組み合わせに妙に納得した。

「あ、あなたは魔女ですか、それとも死神ですか?」

「面白いことを言う若者じゃ。魔女でも死神でもありゃせん。でも親戚には、そんな奴がおるがなぁ」と薄気味悪く笑った。

 どうせタダなんだから、どんな風に死ぬのかを占ってもらおうと思って、意を決しててのひらを老婆の方に差し出した。

「あたしは手相は見ないよ。顔をよく見せておくれ」

「ふむふむ・・・。わかった。仕事が無くなって落ち込んでいるようじゃな。しかし、人生、山あり谷あり。こんなことは、人生にはよくあることじゃ」

「うっ・・・」老婆の顔が一瞬曇った。

「近々(ちかぢか)、大きな出会いがあるじゃろう。ただし、くれぐれも車には気を付けるんじゃよ」

 二度目の死亡フラグが立った。そうか、俺は車にかれて死ぬんだ。でも、マンガや小説のように別世界に転生できたらいいのになぁ、とありもしないことをぼんやり考えた。

 お婆さんにお礼を言って、暗い路地をあとにした。いつもの通勤路に何とか戻って、駅前近くの交差点で信号待ちをした。横断歩道をふと見ると、スマホに夢中でトラックが近づいてくるのに気付かない女性の姿が見えた。

「危ない!」

 気付けば、とっさに体が反応して、その女性を突き飛ばしていた。なるほど、俺はこうやって死ぬんだ。死ぬ前には、今までの記憶が走馬灯のように流れていくと誰かが言ってたけど、本当かな?と頭の中は意外と冷静だった。キキーッと言う急ブレーキの音を聞きながら、意識が遠のいて行った。

「赤信号で渡る奴があるか!」と運転手が怒鳴って、大型トラックが交差点から走り去っていった。

「しっかりして下さい。大丈夫ですか?」

間一髪。どうやら、急ブレーキが間に合って、まだ死ねなかったようだ。気が付くと、見知らぬ女性に抱きかかえられていた。心配そうに俺の顔を覗(のぞ)き込んだ女性は一瞬天使に見えたが、よく見るとOL風の若い女性だった。夜風に運ばれ、その女性からバニラのような香水の匂いがほのかにした。

「だ、大丈夫です」と言った途端、匂いに刺激されておなかがグーッと大きくなった。恥ずかしさで、青ざめていた顔が一気に紅潮こうちょうした。

「あのぉ、助けて頂いたお礼と言っては変ですが、食事に行きませんか?」

 俺は、彼女の行きつけらしいお洒落しゃれなイタリアンレストランで食事をした。ピザやパスタ、料理名はわからないが、そのあとのメインディッシュまで、むさぼるように平らげた。

「こんなに豪快に食べる人は見たことがありません」と女性が言った。

「いつもは小食なんですが、3日ほどまともなものを口にしていないんで」と言い訳した。

「あらためてお礼がしたいので、連絡先を教えてください」と言われたので、メールとLINEのアドレスを交換した。そのあと色々あったが、この出来事がきっかけで、俺はその女性と付き合うことになった。付け加えると、彼女の叔父さんが経営する、堅実でホワイトなIT系企業に再就職することもできた。

 その後、あの占い師にお礼を言おうと、何度もあの路地を探してみたが、あの時の路地を見つけることはできなかった。あの時の老婆は、人間界に降りてきた神様だったんだろうか。もしそうなら、タナトスの眷属けんぞくである死神ではなく、エロスの眷属であるキューピッドだったんじゃないか。いまでは、馬鹿みたいなその考えが確信に変わりつつあった。

 人生、何が起こるかわからない。ふと、老婆に羽の生えたキューピッドを想像したら、吹き出しそうになった。さぁ、これから彼女とデートだ。


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