何度だってまた空を見上げる
休日の午後。
「これをこうして〜。火が通ったら、スパイスを〜」
穏やかな昼下がりに、規則正しくまな板を叩く音に混じってご機嫌な歌が聞こえてくる。
慣れたような手つきで、今し方切り終わった材料を鍋に入れ、引き出しからスパイスを取り出そうとした矢先、
「うわっ」
先ほど具材を入れた鍋とは別の鍋が沸騰し、蓋を超えて吹き立ちはじめる。
調理をしていた彼は、焦った様子で蓋に手を触れてしまい……もちろんそのあとは言わずもがな。
「あつっ……って、これこのあとどうすればいいんだっけ、
振り返るように言葉を続けようとしていた彼の声は、フェードアウトするかのようにしぼんでいく。
キッチンとダイニングに仕切りのないその部屋は、振り返れば部屋を一望できる間取りになっていた。そして、広くなった部屋から、彼の言葉に返答する者はいない。
「はぁ、何回やってるんだろう、これ……」
君が見てたら笑うんだろうな、と自嘲する。
そんなことをしていると、またしてもグツグツと鍋から不穏な音が聞こえてきたため、今度は冷静な頭で火を止める。そして、先ほど落としてしまった蓋を拾い上げると、床の水滴を拭き取り、蓋は流しへと運んだ。
「いただきます」
テーブルには彼一人しかいないのだけれど、きちんと両手を合わせ、食べ物への感謝を口にする。この場合、作ったのは本人なので、その辺の気持ちは添えるだけ。
「うん。味はイケる。見た目は……あれだけど」
彼は、彼女がいなくなってから1年経とうとしている現在も、あの頃と変わらない生活を続けていた。
広い空間。一人で使うには大きすぎるテーブル。彼の目の前の椅子はいつも空席だ。
けれど、彼はそんなこと気にならないかのように、自ら調理した食べ物を口へと運んでいく。
「料理も大部上手くなったんだ。君には到底及ばないけど」
「君にも食べてもらいたかったな」
その言葉に返事はない。返事をもらえないということは、彼自身わかっていた。けれど、彼の独り言は食事中ずっと続いた。
***
「ねぇ、もし私が————たらさ」
君はある日を境に、この前置きをよく使うようになった。
満面の笑みで、冗談を言うようにそんなことを口にした。
最初にそれを聞いたときは、正直戸惑った。
どういう反応をしたらいいのか、僕には答えがなかった。
それでも君は、僕の好きな笑顔で言葉を続ける。
そんなことが何回か続くと、さすがの僕でも慣れてくる。
ここで顔を歪ませたり、悲しそうな表情をしたら僕の負け。怒ってもいけない。
色々と思うことはあったとしても、ここはぐっと堪えて、こちらも冗談で返すのだ。
けれど、今回はどうも様子がおかしい。
声色も、表情もいつもと違う。どう、と言われると、ちょっと困ってしまうのだけれど、とにかくいつもと違ったのだ。
何かあったのだろうかと、僕は彼女が横になっているベッドに腰かけ、体を彼女に近づけた。
「どうしたの?」
「ふふっ」
「え?」
僕が声をかけると、彼女は吹き出すように笑った。
もちろん僕は面食らう。この時の僕は、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしていたに違いない。
彼女はというと、そんな僕の表情がおかしかったのか、しばらくの間笑い続けた。
その笑い方に、揶揄われたのだということだけは理解した。
「で、どうしたの?」
彼女が落ち着くのを待って、僕は再び声をかけた。
「ごめんごめん。————たら、あの家どうするのかなって」
「あぁ、その話か」
まだ笑いの余韻に浸っている彼女とは裏腹に、僕は顔から感情を失くすと、先ほど座ったばかりのベッドから立ち上がり、元いたところへと戻る。花の水を変えようとしていたのだった。もう随分と聞かされ、耳にタコができる、といったところまできた話に返答するよりも、綺麗な花を長く保たせるために動いた方が今は有意義に思えた。
「私のことなら気にしなくていいからね」
その言葉に、僕は思わず持っていた花瓶を強く下ろしてしまった。その衝撃で、大きな音が発生する。その音にも、花瓶が壊れていないかどうかについても動揺を隠せない僕は、花瓶を一通り眺めたけれど、幸いなことにどこにもヒビすら見当たらなかった。
僕はもう一度、今度はゆっくり花瓶を置くと、声の主の方へと顔を向ける。けれど、彼女はこちらを見ていなかった。
だから、と言ってはおかしな表現だけれど、僕は聞こえるようにため息をついた。
「それに関しては、もう決めてる。誰の意見も聞かない」
「はは、そういうとこ頑固だよねぇ」
「家変わっちゃったら、菜々帰ってこられなくなっちゃうだろ」
それでなくても方向音痴なんだから、と心の中で呟く。皆、遠くのことばかり考えすぎなのだ。そんな先の未来のことを心配するなんて、取り越し苦労もいいところだ。まして、その未来が決まっているみたいに。
「相変わらず優しいねぇ」
「なに」
「ううん、なんでもない。寂しがり屋なのにねぇって言ったの」
「言ってなかったよね? そんなこと言ってなかったよね? 何でそこで悪口みたいな方にシフトするの」
僕の剣幕に彼女は笑っていた。
僕は怒っていたのに、彼女はとても嬉しそうに笑っていた。
けれど、そんな彼女の笑顔を僕はもう見られない。
その時は突然、そして確実にやってきた。
たくさんの人が僕に声をかけてくれたけれど、その言葉の一つも僕は覚えちゃいない。
家に帰り、部屋の中に彼女の面影を探しては、ただただ彼女がいない現実を突きつけられた。
会いたい。
そんな感情が、僕の心を占める。
けれど、僕は泣かない。彼女が “笑う” ことを望んだから。
でもその思考に、僕の心と身体は追いつかない。
僕は心の中で言い聞かせる。寂しいけど、悲しくはない。
なんて言い切ってしまうと、ちょっと嘘になるけど。でも、笑っていようって決めたから。約束したから。
『大丈夫だよ』
『何が』
『もう、ほら。そんな顔しない』
君は弱音を吐かない。弱い部分を見せない。
かっこ悪いところを晒すのはいつも僕。
情けないのは自分が一番わかっている。それでも君はいつも笑っていた。
『ねぇ、お願い。笑って?』
笑えないよ、こんな時に。それが僕の本音。
君を困らせることはわかっていた。泣きたいのは君なのに。でも、それをわかっていても、僕の心と身体は思考に逆らってばかりだ。
『しょうがないなぁ。じゃあ、とっておきを教えてあげよう!』
いつまでもメソメソしている僕に痺れを切らしたのか、菜々が少しだけ声量を上げた。
『とっておき?』
『もしもこの先、寂しくなったら、空を見上げて』
『空?』
『うん。私がいなくなったら、そのあと私は星に変わるの』
『何それ。それって、子どもに話すようなことでしょ』
『そうともいう』
おちゃらけた様子で笑う彼女に、僕は眉を下げて笑った。
『でも、私は信じてるよ』
『そうは言っても、星の輝きが届くのって、実際はものすごく時間がかかって……』
『またそうやって
『はは。菜々らしい』
『いい? 約束ね? 寂しくなったら、空に私を探してね』
彼女はもう一度『約束ね』と念を押した。
これが、彼女との最後の会話。
今思うと、ずるいんだよね。星っていうのは何とも卑怯だ。
こんなにたくさん輝いてて、探すの大変じゃないか。
————君は何でもお見通しだったのかな。
でも、それは人も同じか。
————空を見上げるタイミングまで、君は指定したからね。
街を見渡せば、たくさんの人が溢れている。
————僕の泣き虫は今に始まったことじゃないし。
それでも、たくさんの人がいる中で僕は君を見つけた。
————だから、君は
僕は何度だって君を見つける。見つけられる自信がある。
————やっぱり君には敵わないや。
だから今日も僕は、空を見上げる。
雨が降ればいいのに 小鳥遊 蒼 @sou532
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