雨が降ればいいのに
小鳥遊 蒼
君には嘘しか言えなくて
未来は誰にもわからない。
だから、未来を知らない以上、絶望なんてあり得ない。
昔、誰かがそんなことを言っていたような気がする。
僕だってそう思う。
ただ、未来を知らない僕にも一つだけ断言できることがある。
君は僕を選ばない————
たとえ君が彼を想うことをやめたとしても、君が僕を想うことはない。
そんなことを、泣き腫らした目を細め、きれいに笑う君を見て気づくなんて……
なんて皮肉なんだろう————
***
「
「……へぇ、よかったじゃん」
僕の部屋にノックもなく入ってきた
ベッドの上で本を広げていた僕は、まるで興味がないような返事をすると、そのまま持っていた本で顔を隠す。
けれどその態度も、返事も気に入らない紗良は、ドカドカとそばまでやってくると、僕が手にしている本を奪い取った。
「ねぇ、もっと他にあるでしょ?!」
「ないよ。それより、それ返して」
「冷たい! 返事はなんて返したの?』とか、もっと興味持ってよ!」
「興味ないし……」
その返答にさらにムキになったように怒りだす紗良を尻目に、僕はベッドから降りると、先ほど奪われた本を取り返す。彼女との体格差から、それはとても容易に行えた。
その間も紗良は「幼なじみの幸せくらい喜んでよ!」と喚き立てる。
「紗良は大人になっても何も変わらないね。もう少し落ち着いたら?」
「落ち着いたもん! 渉が落ち着きすぎなだけだもん!」
「いやいや。まず、彼氏ができたなら、幼なじみとはいえ男の部屋に堂々と入ってくるのはやめることだね」
「渉はいいんだもん! それにまだ何て返事したか言ってないでしょ!」
そんなの、聞かなくてもわかる。一体何年幼なじみをしていると思っているのか。そして、何年君を見ていると思っているのか。
それに、そんな言葉聞きたくないんだよ。君の口から……
おまけに何が「渉はいいんだもん!」だよ。よくはないだろう。
その彼氏にとっても、そして僕にとっても————
紗良は昔からよくモテた。
学生の時もそうだったし、働き始めてからもそれは変わらなかった。
告白された、彼氏ができたという度に、紗良は僕に報告してきた。親切丁寧に。
そして、彼女が選ぶのはいつも、僕とは正反対の男ばかりだった。
「それでね、今度スノボ教えてもらうの」
「よかったじゃん。ていうかそれ、僕に報告する必要ある? 紗良、友達いないの?」
「な! います! 少なくとも渉よりは友達いますー」
口を膨らませ、何とも幼稚だと思われる返しを堂々言ってのける。いくつだよ、とツッコミを入れたくなる気持ちを抑えながらも、僕は紗良の言葉に反論できない。何せ本当のことだから。
それならば、僕より多い友達に話せばいいじゃないかと思わざるをえない。その手の話は、彼女たちの方が好き好むだろう、とも。
「だって、渉に聞いてほしいんだもん」
それなのに、彼女はそんな言葉を口にする。先ほどよりも声のトーンを落として、呟くように。
僕はため息をついた。彼女はどこまでも残酷だ。本人にその意図がないから、尚更……
そして、自分を傷つけるということを知っていながらも、僕は彼女を————彼女の言葉を追い出すことができない。
だから僕は、僕とは真逆の彼の話を延々と聞く羽目になる。
今回の彼は、いわゆるスポーツマンタイプらしい。とにかく運動神経がいいとのこと。室内にこもって本ばかり読んでいる僕とはまるで正反対。
聞けば聞くほど出てくる真逆の性質に、両手を越えたところで、数えるのをやめた。
彼氏になり得ない僕と彼女を繋ぎ止めるものは、“幼なじみ” という関係だけ。
幼なじみだから、君に選んでもらえない僕でもそばにいられる。
でも時折思うんだ。この関係が、幼なじみから一歩も前に進めないこの関係が、僕にはとてももどかしい。
「あのさぁ……」
「渉って何で彼女作らないの?」
「は? 何、急に」
「急じゃないよ。何でだろうってずっと思ってた」
「別に……僕がモテないだけだよ」
「そんなことないと思うけど? 興味ないとか?」
興味。
それは確かにないね。君以外。
モテないということも事実だし、何より好きな人に好きになってもらえなければ、いくらモテたところで……と、いけない。また同じところに思考がたどり着いてしまう。
そもそも、一体何を言い出すのかと思えば。おかしすぎて
「僕に彼女ができたら、どっかの誰かさんの相手できなくなるからね。紗良が結婚でもしたら、考えるよ」
「何それー。渉にお世話してもらってるつもりないけど」
「よく言う。そんなこと言って、そのうち泣きついてくるよ」
「そんなことありえませんよーだ」
いーっと口を伸ばし、いつものように冗談を言い合う。
僕としてもただこの話を誤魔化したくて言ったにすぎない。
けれど、この時紗良に言った言葉を、僕は後々後悔することになる。
***
「ただいま」
「あ、渉! 帰ってきて早々悪いんだけど、カレーのルウ買ってきてくれない?」
「え、やだよ。今ちょうど雨も降ってきて…」
「でもルウがないと今日のご飯、肉じゃがになっちゃうわよ?」
「……わかったよ」
別にそれでもいいじゃないか、と思いながらも母がそれで満足しないことは長年の付き合いでわかっていた。人使いが少し荒いということも。
僕は仕方なく今閉めたばかりのドアを開けると、先ほどまでは持っていなかった傘を手に取り、再び外へと飛び出した。
雨は先ほど降り始めたばかりで、傘をさすかどうか迷うほどの小雨が時折肌を濡らす。
手のひらを空に向け、これくらいならまだいいだろうと視線を前に戻した時、僕の目に一人の影が映った。時間も然り、まして暗い雨雲に覆われた空が余計に暗闇を作り、街灯だけが唯一の灯火となった道で、その明かりに照らされた人物。その姿を僕が見間違えるわけがない。
「紗良?」
「……」
彼女は僕の声に驚いたように肩を跳ねさせた。
その反応から、僕の声が聞こえていたことは明らかなのに、どういうわけかこちらを見ようとしない。
僕は不思議に思いながらも、紗良の元へと駆け寄る。次第に雨も本降りの気配を見せ始め、僕は手に持っている傘を広げると、彼女の小さな身体ごと覆い込んだ。
「どうしたの?」
こんなところで、と続けようとした言葉は喉奥で堰き止められた。
彼女の肩が震えている。下された右手にはスマホが握られていて、紗良はやはり僕の方には視線を向けずに下ばかりを見ていた。
けれど、僕の目はしかりとそれを捉えていた。雨ではない雫が、紗良の頬をつたっているのを————
僕は彼女へと手を伸ばす。
彼女の涙を見るのは初めてで、こんな時に何と声をかけたらいいのか、かける言葉が見つからない。その代わりに、と彼女に向けた手は触れるギリギリのところで止まり、その場で握り締めると静かに来た道をもどる。
僕がそんなことをしている間に、彼女の方から鼻を啜る音が聞こえ、目元を拭った彼女が僕の方へと振り返った。
その表情はいつものように笑みを浮かべている。ただし、その目は隠しきれない赤みを帯びたまま……
「渉、今帰り?」
そう口にした紗良の声は心なしか震えているような気がした。
そのことに触れないという選択肢もあった。いや、むしろそうした方がよかったのかもしれない。
けれど、僕は彼女のその表情を見て、声を聞いて、先ほどまで躊躇っていた言葉を紡ぎ出してしまう。
「何かあったの?」
「え……何もないよ」
「僕に嘘は通用しないよ」
「…………たの」
「え?」
「ちょっとケンカしちゃって……ダメだねぇ。私、ここぞという時に頑固だから」
頭を掻きながら、まるで照れくさいとでもいうように彼女はそのまま俯く。
その一連の動作を見つめながら、僕は再び言葉を失った。
電灯があるとはいえ、辺りは暗闇に包まれているし、おまけにその明かりも傘が遮光に働いている。だから、俯いている彼女の表情は判然としないのだけれど、どんどん掠れて震えていく声に、彼女の目に涙が溜まっていくのを感じた。
僕はこんな紗良を知らない。
僕が知っている彼女はこんなに弱くない。
違う。僕が知らなかったわけじゃない。知り得なかったんだ。
僕が臆病なまま、踏み込もうとしなかったから。知ろうとしなかったから。
そんな当たり前のことを、こんな時に知るなんて……なんて皮肉なんだ。
けれど僕はこの後に及んで、見苦しくも彼だけでなく、その涙にまで嫉妬してしまう。
君を泣かせる理由を僕は持っていない。それならば、せめて君を笑顔にできる力があればいいのに……
でも、僕にできることなんて、この雨粒の一つにも満たない。
そして、大体こういう場合、気づいた時にはもう手遅れであることが多い。
その証拠にほら、君の手。左手の薬指に、今までなかったものが、この暗闇の中でも輝きを放っている。
僕はそのまま視線を移動させる。
彼女が持つ鞄から覗いているパンフレットに、明確な答えと、彼女が先ほど口にした言葉の意味を理解してしまった。
僕は笑った。彼女に気づかれないように、そっと心の中で。
そして僕は紗良の手を取り、持っていた傘を彼女に授ける。
「スマホ鳴ってるよ。彼じゃない?」
僕の行動に戸惑いながらも、紗良はスマホに目を移す。
画面を見るなり、その表情が変わったことを僕は見逃さなかった。
「おめでとう。幸せになれよ」
そう言って、僕は雨の中駆け出した。
これが、僕が君につく最後の嘘。
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