第2話 ハーフとハイラウンダー

「先生、お手紙ですよ」


 朝、外の掃除をしていた私に町役場の配達担当者から手紙を渡された。


 ルシオンからだ。


「このご時世、『紙』を使える貴族か…… いや、執事さんだったな」


 紙は貴重品、嗜好品である。


 なぜなら、もうかなり長い間植物という植物が地面から自生しなくなったからだ。


 遥か昔に起こった大厄災という現象を経て、今では特殊な地域や環境下でのみ、植物たちは花を広げるようになった、らしい。


 そういう意味で、植物が原料となる食べ物はもちろん、日用品や建材、果ては植物そのものが高級品となってしまった。


 では、手紙を書きたいが紙が買えない人たちはどうするのか。


「久しいな、ヴァルマン先生」


 そう、今しがた私のそばに飛んできたこの『伝鳥でんちょう』という鳥に、伝えたい言葉を覚えさせて、相手に向けて飛ばすのだ。


 というか…… タイミング良すぎないか?


「もうすぐ、『生え変わり』の時期じゃ。協会にはもうタント先生も居られぬし、ぜひそなたに妾の屋敷にて立ち会いをお願いしたいと思っておる」


 しかも淡々と主人の伝言を話すこの伝鳥には見覚えがある。私の医術の師匠、タント先生の患者だった“人外”のものだ。真っ赤な翼に人の身長の数倍はある尾羽。何より、口が人のそれに近い。正に伝言を伝えるために存在する鳥なのだ。


 私は、ふとあることに気がつき、伝鳥の伝言を聞きながらルシオンからの手紙を開封し、中の手紙を読んだ。


「……やはりか」


 先日の報酬の一部、私の『人外関係の医療従事者情報』の情報元は、この伝鳥の飼い主で間違いないようだ。


 タイミングもいいはずである。


「そういうことで、君の往診を心待ちにしておるぞ。バゼラより愛を込めて」


「バゼラの自宅、か。やれやれ、あそこへ行くのは少々骨が折れるんだが……」


「……追伸。別の件で、君も聞きたいことがあろう? その辺もぜひ話したい。待っておるよ」


 伝鳥はそこまで言うと、そよ風の過ぎ去る音と共に空へ舞い上がり 、帰っていった。


 行くしかないようである。


   *  *  *


「往診、ですか?」


 まだ今日のリハビリが終わらないエスト君に、先ほどの伝鳥の件を伝えた。あの「人外バゼラ」の住む場所は特殊であるし、何しろ普段この診療所を利用しない患者の診察だ。ここから離れることにもなるし、一応、エスト君は同居人でもあるので説明が必要だろう。


「わたくしもお供してもよろしいのですか?」


「ああ、ああ、逆だ。まだ運動能力に不安のある君は連れていけない。ちょっとね、僻地にあるんだよ。その人外の住まいは」


 事実、バゼラの住まいはとある山の絶壁の真っ只中にあり、とても人が住める場所ではない。人外でなければ選ばない立地でもあるし、なにより彼女だからこそ住める場所とも言えるだろう。


「いつもの『貸し荷獣屋』でも特注の『翼獣』でないと時間がかかりすぎるくらい、今回は辺ぴな場所なんだ。大人しく留守番を頼むよ」


「え、先生、翼獣の運転されるんですか?」


「もちろん、運転手付きだよ」


   *  *  *


 運転手の後ろに座って空を飛ぶこと2時間弱。


 遠目では、まるで鳥の巣にしか見えないその屋敷は、近づくにつれて私の診療所の数倍を誇る大きなものになっていった。まるで壁に横から生えたキノコのような建て方をした屋敷の、屋上にあたるもっとも外側のバルコニーに翼獣を留めてもらい、私だけ降りて屋敷の扉を叩く。


「どなたでしょう?」


「ヴァルマンです。『生え変わり』の立ち会いに参りました」


 かたん、という閂の外れたような乾いた音がしたのち、扉が開く。


「ご主人様がお待ちです。ようこそヴァルマン先生」


 見覚えがある緑皮顔の壮年が会釈とともに私を中へと促す。彼もまた人外だ。


 この屋敷はいつ来ても気分が悪くなる。自分が昆虫か何かになって、壁に立っている錯覚に陥る装飾になっているからだ。特に、壁から横に生えたシャンデリアは、見ていて不安にしかならない。


「こちらです」


 緑皮顔の壮年が主人のいる部屋へ案内する。今は失われつつある木製の扉を開くと、蜘蛛の糸にも似た繊維に満ちた部屋の中央に、私を呼び出した張本人が、体格に似合わない大きな椅子に座って待っていた。


「遅い。妾が伝鳥を寄越したなら、一時も遅れてはならぬことは、そなたも理解しておろう?」


「冗談か本気か分かりませんけど、協会の人間でもない私がここにくるには、早くても今くらいの時間はかかります」


 “人外バゼラ”。


 彼女は私より長く生きている人外で、外見は私よりすっかり老いている。問題は、ほんの六十年前までは彼女のほうが外見年齢が若かったことだ。つまり、老いる速度は人間とさほど変わらない。


 ならばなぜ、そんなに長命なのかということだが、その理由が今回私が来た理由でもある「生え変わり」にある。


 彼女の人外たる生態のひとつに、ある一定の周期で『身体が脳以外そっくり入れ替わる』という変化が起こる。甲殻類の脱皮や蜥蜴における尾の再生に近いが、私は昆虫の変体に近いものではないかと考えている。


 ただ脱皮などと違うのは、彼女の場合はそのほとんどが入れ替わってしまう関係で、成長するための変化ではなく、むしろ物理的な質量の減少からも見た目が幼く変わってしまうということだ。


 そんな生態を人間たちは若返りの研究のためと、一時期彼女の承諾のもと人間たちの研究所にて共に生活をしていたこともあったが、百年ほど前にバゼラの方が根を上げ、それ以降は大体この屋敷の中で過ごしている。


 私が口にした『協会』とは、要するに人外と人間の交流に摩擦が起きないようにするための間を取り持つ組織で、(本来なら今回もそうあるべきだが)人間側の人材人間の医者人外バゼラに紹介したりする役割を持っている。人間側も、人外バゼラ側も、まだまだお互いがお互いに関係を断ち切ることに未練があるならば、ちょうどよい存在なのだ。


 今回は直接の依頼なので、交通手段がすぐに用意できないという意味での、まあ、イヤミのようなものだ。


「それで、体調はどうですか?」


 ともかく、まずは聞き取りからだ。


「ふむ。あと数時間で『ゆりかご』の生成が始まるじゃろう。栄養の摂取は怠りない。」


「季節などの環境は問題ないですか?」


「そうじゃのう。室温はやや低めじゃが、今のところ支障が出るような感じはせぬ。天候さえ荒れなければ、じゃが」


 今は秋の峠過ぎだ。徐々に気温が下がりつつある中ではあるが、風もさほど強くなく、翼獣の乗り心地も悪くなかったということは、嵐も近くにないだろう。理想は春始めだが、こればかりは季節を選べない。それでもまあまあの好条件での「生え変わり」ではある。


「わかりました。いつでも始めてください」


「うむ、ルーよ。長時間世話になるぞ」


 ルーとは、私の事だ。過去の呼び方をやめてくれというのに続ける嫌がらせをまだ覚えていたのか……


 いやらしい笑顔を向けた後、後ろの方に視線を向けて、バゼラは続ける。


「ドーザ、先生の対応を」


 ドーザと呼ばれたであろう緑皮顔の壮年がこくりと頷き、部屋の外にいた他の使用人と共に部屋へ荷物を持ち込み始めた。主な荷物は私が食べる食事や休むための椅子、仮眠用のベッド、それにバゼラに使うための『道具』だ。


 それらのセッティングを横目に、私はバゼラにさらに近づいて彼女の様子を観察する。


 見た目こそ確かに老いてはいるが、「生え変わり」の準備のため一糸まとわぬ姿で佇むその姿は、神秘的な魅力を備えており、気が付かないうちにその肢体から目を離すことができなくなっていた。


「くっふっふ。なんなら、無くなる前にひと触りしておくかい?」


「む、そう言う意味では、ないんですが」


 前回、タント先生の助手として立ち会った時はもう少し痩せていた、というかあちこちに傷があった気がした。担当はあくまでタント先生だったから、手元にはバゼラのカルテがないから詳しくは分からないが。


「本体に目立った外傷も、特に気をつける箇所もなさそうですね」


 私はそれだけ確認すると、部屋中に散らばっている繊維を集め始める。それらを用意された道具を使って一定の厚みにしたり、部屋の壁から這わせた繊維に乗せて簡易的なハンモック状のベッドへと形作る。


「よし、こんなものだろう。バゼラ、仕上げをお願いします」


 バゼラに、最終点検と仕上げを促す。


 無言で立ち上がるバゼラは大きくゆっくり息を吸うと、手製のベッドに向けて口の左右にある小さな穴から細く白い繊維を吹き出す。それは、部屋中に散らばっている繊維と同じもの。蜘蛛がだす糸と似たようなものではあるが、粘着性はほぼ皆無で、今出している分はどちらかと言うと敷布団のような役割になる予定だ。


 ある程度の厚みを出し終わると、まるでゆりかごのような繊維のベッドが出来上がった。それはバゼラの体をすっぽりと覆う大きさと深さを備えている。


 「ふむ。なかなかに悪くない。それでは始めるとするか」


 バゼラは、そのままベッドへと横たわる。


「じゃあ、入れていきます」


 私は準備されていた薬品の一つを、バゼラの周囲へ流し込んでいく。少しずつ少しずつ流し込み、彼女の半分くらいが沈むくらいまで注ぎ込むと、そこでいったん止める。


 しばらくした後、彼女の四肢および首から下の大部分が特殊な液体へと変化していく。まずは体全体の皮膚が強い酸で溶かされたかのようにただれていき、肌の色が透き通った白から筋肉や血管の赤色が目立つ色使いになる。


「ああ、何度やってもこの始まりの瞬間だけが慣れぬ」


「融養液化にムラは出ていません。順調ですよ」


 融養液化とは、彼女の体が融けて液体になる現象の呼称である。栄養水とも呼ばれていた時期があったが、彼女以外が口にしてもむしろ害になることが多かったために、そう名前を付けられた。もちろん定義づけたのはタント先生だ。


 「うむ。そろそろ話すことも難しくなる。後は頼むぞ」


 もはや笑顔もまともに見ることが困難になった彼女の体は、徐々に筋肉繊維や血管が赤茶色の液体へと変化し、神経と骨が浮かび上がるようになっていく。黄色とも緑ともとれる筋繊維の一つ一つが露わになると、僅かな時間を置いてそれらも氷が融けるかのように融けてゆく。四肢の繊維質がほろほろになると、私は羽白白銀でコーティングされた金属の棒を取り出し、周囲の薬品と混ぜ始める。


 この薬品はたんぱく質の融解を助ける薬液だ。とある動物の唾液を参考に作られたものらしく、詳しい製造方法はよく知らないが彼女の体組織がダマにならないようにする助けに使うために用意したものだ。


 表面的なものが融け切って内臓が露わになる。比較的綺麗な心臓や、それらを覆う肋骨も白色から徐々に灰色を経由して黒く染まっていく。胃や腸もどんどんとしぼみ、乳房やその下にある繊維袋も小さくなっていく。子宮を含む下腹部の内臓関係も他の融解した体液と同化して、黒ずんだ骨以外は大体液状化してしまうと、薬品との混ぜ合わせ作業を一時中断し、骨を砕く作業に入る。ちなみに、道具に羽白白銀を用いるのは他の素材ではすぐに劣化してしまうのだ。しかし、すべて羽白白銀で道具を作ると逆に彼女の生え変わりを阻害してしまう。なお、これらの道具が作られる前はダマになった肉片がそのまま新しい体に残ってイボのようになったり、骨が二重に重なってしまって生活に支障が出たりしていたらしい。そう言う意味ではタント先生が発見した内容や研究所での研究成果は、彼女の生活を円滑にしていくうえで必須だったとバゼラが話していたのを思い出した。


(前回も助手として参加していたが、かなり骨が折れる作業だな。まさに骨を折ってるわけだし)


 液体化した肉片も、砕いた骨も、次の新しい体を形成するために必要な素材となる。なるべく吸収・再構成しやすいように細かく、どろどろにしておく必要がある。彼女の肉体の再構成が始まるまで意外と時間がないため、とにかく砕き、混ぜ、融かしていく。


   *  *  *


「お疲れ様です」


 一通りの混ぜ合わせが終わり、椅子で一息つくとドーザが飲み物を入れて運んできた。気が付いたらもう日が暮れている。半日以上をこの作業でつぶしたことになる。


「ああ、ありがとう」


 私は飲み物を飲みながら、バゼラの様子を遠目で見る。


 既に、中身はほとんどが液体となり、その中央に脳…… というか核に近い丸い物体が浮かんでいる。ちなみにあの状態でも音は聞こえているらしく、以前の生え変わりの最中に、タント先生と話していた内容を聞かれていた。何を聞かれていたかはあまり思い出したくはない。


「それと、こちらを」


 そう言うとドーザは、道具類を置いた机の端から何かの束を差し出してきた。束の表紙らしきものを見ると、『バゼラ』と見覚えのある書体で書かれている。


 「タント先生が担当だっ時の、お館様のカルテです」


 一瞬、体がこわばる。


 人外のカルテは、協会が管理・保管しているはず。患者本人が所持していることは少ない。ましてタント先生が関わったカルテは人間・人外問わずタント先生自身が持っていることがほとんどで、私ですらまともに目を通したことはない。


「先日、お館様が自身の『生え変わり』の資料を、と協会へ赴かれた時に手に入れたと申されておりました。その時に例の執事殿にお会いされたらしく、手に持っていたカルテを見られてしまってついヴァルマン先生の事をお話しされたそうです」


 執事、というのはルシオンの事だろう。なるほど、かなり前に協会を辞めたバゼラが協会にあるはずの自分のカルテを持っていること、そしてルシオンの行動範囲にいないはずのバゼラがルシオン接触したのは、そう言う理由だったか。


「というか、何故その話をあなたが?」


「『なんとなく責められる気がするから』、自分の『生え変わり』の最中に話しておいてくれと言われましたので。お館様はヴァルマン先生を紹介するのをかなりギリギリまで迷っておられたようなのです。よほどその執事殿の相談内容は切羽詰まった話だったのでしょうね」


 私は、改めてエスト君の事を思いだす。


 確かに突拍子もない内容だ。どこまで要約して伝えたかは分からないが、今協会に所属している医師の中では私が一番の適任者であることは間違いないだろう。私以外は人外と人間と同時に関わる知識持ちはいないからだ。


 私は、半分納得しながらバゼラのカルテを開く。もちろん興味がないわけではない。彼女の『生え変わり』を詳しく研究すればエスト君の人外化を止めることも可能だろうし、それができれば私の人外である部分を人間に変えることもできるかもしれないからだ。


 カルテには、過去七回分の『生え変わり』の履歴が記されていた。


 おおよそ六十年から八十年周期でそれは行われるので、ざっくり五百年あまりの歴史が刻まれており、何度も肉体が新しくなることから関係者からは『高速周回者ハイラウンダー』と彼女は呼ばれている。直近二回の担当医にタント先生の名前が記されているし、直前の助手には私の名前もあることも確認した。カルテによると、体が完全に融解した後は四時間から八時間は新しい体の生成に時間がかかるようだ。


 やれやれ、確かにすぐに帰れた記憶はなかったが、泊まり込みになるところまでは考えてなかった。帰ったらエスト君にはどう言い訳するか、そんなことを考えながら私はいつの間にか眠りに落ちてしまった。


   *  *  *


「いつまで寝ておる!」


 聞き覚えのない、甲高い元気な少女の声で私は飛び起きた。


「うおっ!」


 驚いて手元のカルテを落としそうになるが、寸でのところで落下から守る。


 ひと呼吸、ゆっくりと行ってから声のした方向へ目を向ける。


 そこには、年の頃十歳にも満たない少女が、一糸まとわぬ姿で立っていた。この館に来て初めて見る顔だが、私には思い当たる節がある。


「……バゼラ?」


 仁王立ちでにらみつけていた少女は、満面の笑みに表情を変える。


「そなたの働きで、いつもよりも早く『生え変わり』が終わった。新しい体も非常に調子が良い。自分ですぐに動けるようになるほどに体が整っておるしな」


 バゼラはぐりぐりと体を動かす。どこまで動けるか確認しているようにも見えるが、本人も目覚めたばかりなのだろう、再生に使われずまとったままの液体が体を動かすたびに糸を引いて肌を伝っている。その姿が幼いながらも艶めかしく感じるので早く服を着てほしい。


「それはよかった。診療所の入院患者に泊まることまでは言わなかったから助かるよ。これであまり運動に制限があるとかだと困るとことだったんだ」


 ピタリ、とバゼラの動きが止まる。


「……入、院、患、者?」


「ああ、さっきそちらの、ドーザさんに聞いたよ。バゼラが相談した相手の患者だよ。危うく体を家族の人外化に使われそうになって、何とか治療は成功したんだが、なんというか、半ば自分から入院することになってね」


 すると、バゼラはドーザに耳打ちし、早々に体の液体をふき取り着替えだす。ドーザや他の使用人は、その間に謎の荷物作りを始める。


「確か、あの執事殿の話だと貴族のご令嬢が病気で、ということだったと思うが?」


「ああ。詳しくは話せないが、片目、片手、片足が無くなってて、代わりの四肢を移植したんだ。まだリハビリしている最中だし、こっちで面倒を見ることになったんだ、何故か。バゼラはそこそこ体も動くようだし、私じゃなくても面倒を見れる者がいるから、大丈夫だろう……と」


 何故だろう。周りから使用人の数が減っている気がする。


 片付けも早々に終わっている。これは私が寝落ちしているときにされたとは思うが、なんだか手際が良すぎる気がする。


「そうか、ところで」


 バゼラはすっかり着替えが終わったようだが、何故か足元には彼女と同じくらいの大きなカバンが置かれている。私は妙な予感を感じた。そう、あの診察の帰り、自分の診療所の鍵が開いていたときと同じ予感だ。


「妾の使用人たちも、この『生え変わり』を見届けたら暇が欲しいというものが多くてな。つい全員に暇を出してしまったわ」


 三十六計逃げるに如かず!


「それじゃあ、私は」「まあ待てルーよ」


 肩をがっちり捕まれる。これが少女の腕力か!?


「妾も『生え変わり』で普段よりも体力が弱っておる。そんな妾をこの広い館に一人残していくのも心苦しかろう?」


「首、首! 決まってる!」


   *  *  *


 まさかの朝帰りだ。


 翼獣と運転手を待たせた分と合わせてかなりの出費を強いられたうえ、この状態は少々まずいかもしれない……


 静かに入ろうとドアノブに手をかけると、私が扉を開く前にひとりでに扉が開いた。


「おかえりなさいませ! 遅かったので心配し……」


 勢いよく開いた扉の向こうにはエスト君が待っていた。翼獣が降りてきて音を聞いて出てきたのかもしれない。


「起きてたのかエスト君、すまない遅く」「おお、今はここの診療所で働いておるのか。意外と広いのう」


  言い訳をする前に、背後に隠していたはずのバゼラが私を押しのけて中へ入ろうとする。が、それをエスト君が体を使って遮る。


「あら、お客様ですか、すいません、ここはまだ開いてないんですよ」


 しゃがんでバゼラを覗き込むエスト君。相手が五百歳を超える人外だとは思うまい。


「妾もここに入院が決まった患者じゃ。バゼラと申す。よきにはからえ」


 なおも押しのけて奥へ行こうとするバゼラを体一つで遮るエスト君が、視線だけ私に向けて無言の抗議をしてくる。私だってこんな話になるなんて聞いていない。


「長旅で疲れたのじゃ。昨日は遅くまでルーに体中まさぐられてほとんど寝ておらんからな」


「な! わ、わたくしだってお腹を奥まで思いっきり貫かれたことがありましてよ!」


 ついには取っ組み合いになりそうな空気になったので、慌てて間に入る。


「ま、まあまあ! 詳しくは昼にでも話す! 今は、まず休ませてくれ……」


 両方とも嘘を言っていないだけに、始末が悪い。私は先方から預かったカルテを棚に収めつつ、これからの生活に一抹の不安を感じていた。

 

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