第3話 とある王女と奴隷の結末

 それから数年の月日が流れました。


 アフィーフは地下牢に閉じ込められたままで、ラーニヤは独り身のまま地下牢に通い続け、上の妹にも下の妹にも、子どもが生まれました。ラーニヤは心の底に、満たされない愛への憧憬と焦燥を抱えながら、今日も地下牢から帰ってきました。


 あの日と同じ、青い月明かりが窓辺に差し込んでいました。

 猫がいました。


「また来たの?」


 猫は時おりこうやって、ラーニヤのもとへとやってきます。人語は話したり、話さなかったりします。猫の黄色い目が、暗闇の中でキュッとかがやいています。


 今日の猫は、悪魔の顔をしていました。


「奴隷とはどうなった?」

「いつもと同じよ」

「あきらめないのか?」

「……今さら、後には退けないわ」


 ラーニヤは天蓋付きのベッドに腰を下ろしました。布団が膨らみ、雲のように盛り上がって体を浮かせます。


「……まだ、真実の愛を求めるか?」

「ええ」


 心の渇きが満たされるまで。胸の空虚が埋まる、その日まで。

 ラーニヤは猫の目をジッと見つめ、


「何かいい案をくれるの?」


 そして猫は彼女の期待通り、ほんものの愛を手に入れるための手段を教えてくれました。


 それはまさしく、ラーニヤの求めてきた愛そのものでした。

 彼女は暗闇の中で、月明かりの中を泳ぐ黒い影を見つめて、唾を飲みました。


   ※


 そろそろ奴隷アフィーフの話をしましょう。


 アフィーフはもともとべつの国の王家の生まれで、戦争に敗れてこの地へと連れてこられました。高い教養と品の良い素質は、長年の地下牢生活でも失われず、むしろ極限の環境下において、それらはますます洗礼されていきました。


 もうこのままここで死ぬのだろうと、あの王女ラーニヤの毒みたいな愛の中で、冒され死んでいくのだろうと、彼は思っていました。だからその日の晩、唐突に釈放が告げられた時、自分はもう死んで天界にたどり着いたのではないかとアフィーフには思われました。


「……」


 数年ぶりに見上げた夜空はまぶしく、月明かりにすら目がつぶれそうでした。いつの間にかできあがっていた神の塔が、夜空を突き抜けて天に刺さっています。こんな大きな塔が完成するまでの長い年月を、自分は不意にしてきたのだと、彼は愕然としました。あの日、あの王女を助けなければ、あの王女に愛されてさえいなければ。奴隷としての身分は変わらなくとも、少なくともこうやって、月明かりに目をつぶされるようなことは、なかったのだろうと思いました。


 外の空気がひどく肺に痛みました。すっかり弱った足腰に、地面の感触がとても懐かしく響いてきます。人混みの喧騒が、酔っ払いの声が、子守唄のように耳の中へと歩み寄ってきます。アフィーフは外の世界を踏み締めました。数年の年月を経た砂漠の風が、彼の口の中に入ってきました。


「……」


 彼の目が明るさに眩んでいなければ。足腰が立っていたなら。外の世界への懐かしさに、胸を締め付けられていなければ、彼はもっと早く、その暴漢から身を守ることができたのでしょう。


 明るさに眩んだ視界の中で、暴漢の手に光ったナイフの切先が光りました。

 アフィーフは、目をつむりました。


 肉を抉る感覚は、いつまで経っても感じませんでした。


「……え?」


 アフィーフは恐るおそる目を開けました。体を庇うように突き出された手の向こう、見慣れたかがやかしいドレスの裾が、血でどす黒く染まっているのが見えました。


 ラーニヤでした。

 刺されていました。


 誰かの悲鳴が聞こえ、誰かが走ってくる音が聞こえ、金属の音が聞こえ、そしてすべてが終わりました。月明かりに焼かれた目を瞬かせながら、アフィーフは今度こそしっかり現実を見ました。ナイフを持った暴漢は、その場で兵士に殺されていました。暴漢の持ったナイフの先、血に濡れた石畳の上で、ラーニヤは人形のようにぐったりと沈み込んでいました。


「ラーニヤっ!!」


 アフィーフは彼女の名を叫びました。

 はじめて、彼女の名前を呼びました。


「どうして……?」


 彼はラーニヤに駆け寄り、彼女の体を持ち上げました。生温かい血が、べっとりと手に付きます。あれだけ憎悪してきた王女が、あれだけ自分の人生を壊してきた王女が、目の前で小さくなっていきます。


「ラーニヤ!!」

「あ……。アフィー、フ……」


 彼女が助からないだろうことは、火を見るより明らかでした。

 どうして彼女が自分を庇ったのか。

 どうして彼女の死を前に、こんなにも悲しんでいるのか。


 アフィーフには、分かりませんでした。


   ※

 

 胸にナイフが突き刺さった瞬間、焼けつくような痛みが、ラーニヤの全身を貫きました。


 傷口から、命がこぼれていくのを感じました。手足は冷たくなり、息が苦しくなり、意識が闇へと沈み込んでいきました。


 でも誰かが自分の名前を呼んだ時、彼女の意識はほんの一瞬、月明かりの下に舞い戻りました。

 アフィーフでした。


「ラーニヤ! ラーニヤ!!」


 はじめて彼が、自分の名前を呼んでくれました。自分のために、泣いてくれました。その瞬間、ラーニヤの心の中に、言いようもない何かがジワジワと満ちてきました。それは温かく、優しく、柔らかく、穴の開いたラーニヤの心にすっと染み込んできて、彼女の長年の空虚を埋めていきました。


「あ……、アフィー、フ……」


 ずっとこれが欲しいと思っていました。

 ずっとこんな、真実の愛が欲しいのだと思っていました。


 もう動かないはずの手を懸命に動かして、ラーニヤはアフィーフの頬に触れました。涙でぐしゃぐしゃの顔に、血がほんの少し付きます。ラーニヤの心は甘い愛に満たされ、あふれ出し、彼女は幸福の頂点に立ちながら、暗闇に意識を委ねました。


 彼女は死ぬ間際、ほんの一時だけでも、真実の愛を手に入れたのでした。



 暴漢から奴隷を庇い、王女ラーニヤは亡くなりました。

 砂漠の国のすべての民が、彼女の死に涙し、それを悼みました。

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