第2話 とある王女と奴隷の愛憎

 その翌日から、シャフィーカは城へと来なくなりました。


 話し相手がいなくなったラーニヤには、余暇の時間が大きく残りました。その時間のほとんどを、彼女は思索に費やしました。彼女が考えていたのはただひとつ。奴隷のアフィーフのことでした。


 アフィーフのことばかり考えて、ひと月ばかりが経ちました。身分違いの片想いに溺れる娘を案じて、父王は幾人かの優れた男を連れてやってきました。


 要するに、縁談です。


 ですが完全にアフィーフへ胸焦がれていたラーニヤにとって、父王の策略は火に油を注ぐようなものでした。ラーニヤは男たちに無茶な要求をして、縁談をことごとく跳ね除け、城から追い出してしまいました。


 王女には新しい従者がつけられましたが、ラーニヤとは馬が合いませんでした。


 そんなラーニヤですが、ひとつ、楽しみがありました。夜、王宮が寝静まった後、自室のベランダから庭へと降りて、街を散歩するのです。従者も父王も、誰も知らないラーニヤの秘密。彼女はあの日、アフィーフに助けてもらった時のドレスを着て、街に繰り出します。そして一歩外れた路地裏へ、彼女がアフィーフと出会った路地裏まで、足を運ぶのです。


 また彼に会いたいと、ここに来れば彼に会えると、ラーニヤは信じていました。


 ラーニヤを襲おうとした男と彼の一味は、あの後、投獄されました。べつの女を襲ったのです。それを聞いてラーニヤは、足が崩れそうになるほどの安堵を覚えました。あの時、アフィーフが助けてくれなければ、襲われていたのは自分だったかもしれないのです。


 彼らが捕まったからと言って、夜の路地裏は安心できるところではありません。それでもこうやって毎日、王女は路地裏までやって来るのです。




 それから三ヶ月が経ちました。ラーニヤの脱走と夜遊びに気づいた従者たちでしたが、止めるすべもなく、ほとほと根を上げてしまいました。


 そして何の前触れもなかったある日、ついにラーニヤはアフィーフと再会しました。


「何の用だ?」


 賑やかな街の片隅で、アフィーフはごみの入った木箱に寄りかかって眠ろうとしていました。


「あなたに会いたかったのよ」

「迷惑だ」


 ラーニヤはムッとしました。自分にこういう態度を取る人間と、今まで話したことがなかったからです。


「それでもよ」


 でも彼女は引き下がりませんでした。


「あなたに、結婚を申し込みたいの」

「は?」


 眠ろうとしていたアフィーフの目が一瞬、開きました。

 ラーニヤは、


「わたしの夫になってちょうだい」


 そう言う彼女の声は、心の底から真剣で、


「あなた、奴隷なんでしょう? でも、奴隷を辞めたい。違って?」

「それは……、その」

「わたしの夫になれば、奴隷は辞めさせてあげる。わたしは長女で、男の兄弟はいないわ。だからわたしを妻にすれば、あなたは未来の王さまよ」


 ラーニヤは両手を広げました。砂漠の夜風が、ドレスの裾から入ってきて寒気を催します。

 だがアフィーフはにべもなく、


「馬鹿なことを言うな」


 彼はもう一度目を閉じました。


「あなたには他に、ふさわしい人がいるはずだ」

「何言っているのよ? 他にふさわしい人なんかいないわ。アフィーフ、わたしはね、あなたが好きなのよ」


 こうなったラーニヤを止められる人間はもう、どこにもいません。なまじ世間を知らないだけ、ラーニヤは大胆でした。


 それでもアフィーフは、返事をしませんでした。




 聡明で、芯が強く、奥ゆかしくて、美しく。


 王女という星のもとに生まれ、そうやって育てられてきたラーニヤにとって、愛されることは当たり前のことでした。でもそれはきっと、自分が王女なのだろうからだと、彼女は薄々ながら、ずっとそう思っていました。


 それが今、ようやく刃物となって目の前に突きつけられたのです。自分はすべての人間に愛されるわけではないのだ、と。現にアフィーフは、誰よりも愛してほしいアフィーフは、あんなにも自分を嫌っているのです。


 手に入れられない想い。空虚を抱えた心。どんな人間だって思いのままに言うことを聞かせられるラーニヤでしたが、アフィーフの心ばかりは、どうやっても動かせませんでした。


 今まで世間というものを知らなかったラーニヤにとって、城下の裏路地で奴隷を探す時間は、何とも愉快なものでした。しかし彼は毎晩現れるわけではありません。アフィーフへの片思いは楽しく、同時に彼女の心をジリジリと焼いていくのでした。


 奴隷の生活が貧しいことを、ラーニヤは知っていました。最初は食べるもの、次は服、そして金品。でもアフィーフはそれらをひとつとて受け取りませんでした。彼を挑発するために、露出の多い服装をしていったこともあります。それを彼に見せつけても、それでも彼は見向きもしませんでした。


 どうやったらアフィーフは、自分に振り向いてくれるのでしょうか。ラーニヤは眠れない夜を悶々と過ごし、そうして毎日、朝を迎えるのです。


 ラーニヤが体の関係を断られた翌日の朝、彼女の元に一通の手紙が届きました。

 親友、シャフィーカの結婚の報告でした。





 シャフィーカの結婚はおめでたいことでしたし、祝福する気持ちはもちろんありました。でも自分の心に湧いてくる感情は、そんな明るいものではなかったことに、ラーニヤは愕然としました。


 きっと相手の殿方は、裏路地で抱擁を交わしていた人なのでしょう。そう思うと胸が焼けついて、のどをかきむしりたくなります。


 あの前の日、自分は彼女に、恋を知っているかと問いました。あの時、シャフィーカはもう恋なんてものではなく、愛そのものを知っていたのでしょう。手紙には結婚の報とともに、母になることも書かれていました。ラーニヤは手紙を握りつぶし、ビリビリに切り裂いてランプの火で燃やしました。


 ラーニヤは嫉妬で狂い、周囲をきちんと見ていませんでした。ランプの火が大きくなってようやく、視界の隅に、その猫がいることに気がつきました。


「……」


 顔を上げました。猫は黒く、月明かりの差す窓辺に座って、こちらを見ています。急に恥ずかしくなってきました。今の怒りの形相を、友人の幸せを祝福できない醜い自分を、たとえ動物であったとしても、誰かに見られてしまったことが、心の底から恥ずかしかったのです。


 ラーニヤはジッと猫を見つめます。動揺に目が泳ぎ、恥辱に頬が染まるのを感じます。


 猫が口を開きました。


「愛が、欲しいか?」


 猫の口から飛び出てきた人語に、耳を疑いました。


「今、なんて……?」

「愛が欲しいのか、と、訊いたのだ」


 猫は足音ひとつ立てず、スタリとじゅうたんの上に着地しました。ラーニヤには人語を操るその猫が、悪魔の化身か何かのように思われてなりませんでした。


 彼女はまた、猫の声を聞きました。


「あの奴隷の男を愛しているのだろう?」

「それは……」

「お前はあいつに愛されたい。真実の愛が欲しい。違うのか?」

「……」


 猫は悪魔の化身でもなんでもなく、ただの猫の姿をしたままラーニヤに問いかけます。


「あいつを従わせるためには」


 黒猫、尻尾、ゆらゆら揺れて。肉球、ペタリと、じゅうたん踏んで。


「あいつの命を握ればいい。あいつがお前なくして生きられないようにしてやれば、おのずとあいつは、お前を愛するだろう」

「私なくして……。生きられないように」


 どうやって?

 猫はにべもなく、


「そんなもの、お前自身が考えなさい」


 私なくして、生きられないように。


 瞬き。

 猫が消えました。


 あの猫が悪魔だったのか、神の天啓だったのか。ラーニヤには分かりませんでしたが、この出来事が彼女にひとつの気づきを与えたことはたしかでした。


 翌日、彼女は高価な首飾りが盗まれたと騒ぎ立て、その日の晩にはアフィーフが捕らえられました。


「あの王女が、自分にこの品を押し付けてきたのだ」


 アフィーフの言い分など通るはずもなく、彼は窃盗の咎で地下牢に入れられました。だが不幸な奴隷を哀れんで、聡明で美しい王女ラーニヤは、毎日地下牢に通い、かいがいしく彼の世話をしました。食事も衣服も、あるいは汚物の壺の世話も、鎖で縛られたアフィーフには何ひとつできませんでした。


 アフィーフは嘆きました。自分の運命を。ラーニヤはそのすべてに心から耳を傾けました。彼女はどんどんアフィーフを愛しました。アフィーフはラーニヤなしには生きられなくなりました。


 それでも猫の思惑通りにはいきませんでした。


 ラーニヤの胸には、疑問が募ります。これは自分が求めていた愛とは、真実の愛とは違うのではないか。自分が求めていた真実の愛とは、もっと明るくてまぶしくて、自由で美しいものだったはずなのに。こんな汚物が腐敗した冷たい地下牢の中で、鎖に縛られたまま育まれるものではなかったはずなのに。


 アフィーフもまた、この状況下に陥っても、ラーニヤの求愛には頑としてうなずきませんでした。


「バカなことはやめろ」

「君にはふさわしい人がいる」

「君はもっと真っ当な方法で、愛を手に入れるべきだ」


 アフィーフはとんでもなくバカで頑固なのだと、ラーニヤは思いました。



 シャフィーカの出産の報が届けられました。上の妹が、他国の王家へと嫁いでいきました。下の妹の縁談もまとまりました。


 父王はもう、奴隷に執着する長女のことを、あきらめました。

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