とある王女と奴隷の話
山南こはる
第1話 とある王女と奴隷の出会い
昔むかしある砂漠のど真ん中に、水を湛えた巨大なオアシスがありました。
オアシスはとある王さまが治めていて、王さまの命令によって連れてこられた奴隷たちが、せっせと働いています。王さまは、空よりも高い塔を造るために、奴隷を働かせています。空よりも高い塔を造って天にたどり着ければ、自分が神さまになれると思っているのです。
そんな砂漠の国の王さまには三人の娘がいます。そのうちのひとり、長女ラーニヤがこの物語の主人公です。
ラーニヤは姉妹たちの中でもっとも美しく、もっとも聡明でした。奥ゆかしい性格ながらも芯が強く、従者や国民からも広く慕われ、愛されて育ってきました。
そんなラーニヤの心に深い闇があることを、知っている人は多くはありませんでした。王女は自分の心を隠すのがとても上手です。王さまもお妃さまも、ふたりの妹たちも、たぶん、ラーニヤの心には気がつきもしませんでした。
胸の中に広がる空虚。孤独。むなしさ。
「ねえ、シャフィーカ」
ラーニヤは従者の少女の名を呼びます。
「なんでしょう? 姫さま」
「ふたりきりの時は、姫さまと呼ぶのはやめて。こっちへ来て。寂しくてたまらないのよ」
ラーニヤの豪華な部屋。シャフィーカは主人の言うとおりに近寄り、彼女の命ずるとおりに、分厚いじゅうたんの上でくつろぎました。
主従関係など感じさせない、ごくふつうの友人同士のように。
「ねえ、シャフィーカ。あなた、恋を知っていて?」
「恋、ですか?」
「そうよ、恋。今日、本で読んだの。お金とか権力とかそんなもの……。そんなもの、すべてを忘れて愛し合える関係って、素敵だと思わない?」
ラーニヤはとても聡明な娘でしたが、ゆえに考えすぎるきらいがありました。彼女はこう思っています。自分が周囲に愛されているのは、自分が王の娘なのだからだ、と。絶対的な権力を持っている王の、その娘なのだから、周囲は媚びへつらわないわけにはいかないと言うのです。
だからラーニヤはこう思っています。ほんとうに真実、心の底から自分を愛してくれる殿方など、一生現れるわけはないだろう、と。
「シャフィーカ、明日はお休み?」
「え、ええ」
「なら、私と一緒に出かけない? お父さまが、ひとりふたりなら、護衛の兵士を付けてくれるって。私、新しい服が欲しいの」
嬉々とするラーニヤの目。そのかがやく宝石みたいな目に見つめられて、シャフィーカはつと目を逸らします。
「ごめんなさい、王女さま。私、明日はその、用事があって」
「あら、そうなの?」
ラーニヤは落胆します。王女である彼女に、シャフィーカ以外の友人はいません。そんなシャフィーカとて病気の父を抱え、ラーニヤに仕えていなければ、彼女と父もまた、路頭に迷っていたことでしょう。
「次の機会は、ぜひご一緒しとうございます」
そう言ってシャフィーカは微笑みました。
それからしばらくふたりは話をし、やがて部屋の扉は閉ざされました。シャフィーカはこの後城下の家に帰り、父親の世話をするのでしょう。同じ歳なのに、シャフィーカはたいへんだとラーニヤは思いました。
※
お忍びのお出かけは、実りあるものになりました。
新しいドレスと豪奢なネックレス。どれもラーニヤの欲しかったもので、それらは美しい彼女をなお飾り立て、華々しさを引き立てました。
これから王宮に帰るという段になって、ラーニヤは誘惑に引き入られました。このまま街を歩くのも悪くありません。新しいドレスと新しいネックレス。昨日読んだ本を思い出します。素敵な殿方との出会い、恋、逢瀬、縁談。
ラーニヤは誘惑と手を取り合いました。
人混みの城下町、護衛を巻くのは難しくありませんでした。人混みをかき分け、細い路地を入ります。靴がゴミを踏みました。護衛の兵士の声が、ものすごく遠くに聞こえました。
「……」
護衛の声も街の喧騒も、すべて聞こえなくなってようやく、ラーニヤは立ち止まりました。
知っているはずの街の、見知らぬ街並みが、そこに広がっていました。
豪奢さも華美さも何もない、無骨な建物。道というよりも、通路と言った方がいいような狭い道。道の脇に積まれた木箱と樽からは、ゴミの臭いが漂っていて、上を見るとロープにかかった洗濯物がひらひらとはためいています。はためいた洗濯物は、質素で簡素で実用的でした。ラーニヤは自分のドレスの裾をつまみます。
「……迷ったわ」
道に迷いました。
迷子になりました。
世間を知らないラーニヤですが、自分が場違いであることくらいはよく分かりました。彼女はきらびやかなドレスを隠すようにして、来た道を引き返します。でもどこを通ってここまでやってきたのか、実はまったく分かりませんでした。
まるで泥棒みたいに、ラーニヤは道を歩きました。昼間だというのに街は静かで、どこか遠くで子どもが遊ぶ声が聞こえました。
「……」
若い男の声がして、ラーニヤははたと立ち止まりました。
声は前方、角の向こうから聞こえます。男は誰かと話している様子で、相手は若い女のようです。ラーニヤは耳を澄ませました。自分のドレスの飾りが音を立ててないか、とても心配になりました。
ラーニヤは、ゆっくりと角から顔を出します。こちらに背を向けているのが誰なのか、一目見て分かりました。
シャフィーカでした。
シャフィーカは王宮に出入りする時の従者の格好ではなく、町娘にふさわしい服を着ていました。色鮮やかですが、簡素で生地がしっかりしたドレス。ラーニヤの薄くてきらびやかで繊細な生地とはぜんぜん違う、実用的なドレスでした。
男も朴訥とした青年で、ふたりは人目をはばかるように、路地裏で抱き合っていました。シャフィーカが背伸びして、男の首に手を回します。男もまたシャフィーカの背に手を回し、彼女の体を抱き寄せます。
そして、
「……」
恋を知っているかと問うた自分が、ものすごく馬鹿だったように感じました。
何も知らずに買い物に誘った自分の無邪気さが、恥ずかしくなりました。知らん顔をして黙っていたシャフィーカに、裏切られた気分でした。
同時にラーニヤの心の中に、ふつふつと湧き上がってきた感情があります。
嫉妬。
羨望。
強い、あこがれ。
胸を焦がすということは、こういうことなのだろうと思いました。
走りました。顔を伏せて。今度こそ、どこをどう走ったか分からないくらいに、手当たり次第、角を曲がりました。もうシャフィーカとは友だちではいられません。彼女がそれを望んでも、自分がそれに応えられないだろうことを、ラーニヤは手に取るように理解していました。
現実からの逃走は、あっけなく終わりました。ドン、と何かにぶつかる音。体がはじき返される衝撃。尻もち。前をちゃんと見ていなかったラーニヤは、ようやく顔を上げました。
「……よぉ、姉ちゃん」
暴漢。
ラーニヤは慌てて周囲を見渡します。治安の良くない地域に足を踏み入れてしまったらしく、目の前の男のような荒くれ者が、何人もそろってこちらを見ています。
「ここは、姉ちゃんみたいな娘の来るところじゃねえぜ」
男のナイフが、ラーニヤの長い髪を掬います。
「服は上等、髪も肌もきれい。こりゃほんものの金持ちだ。イイモノ食ってやがる」
売ったら良い金になるな。
どこからか聞こえた言葉に、ラーニヤの背筋は震えます。
売られる。売春宿、奴隷。
ラーニヤは走り出しました。長いドレスが足にまとわりついて邪魔で、首に下げたネックレスがじゃらじゃらと音を立てて、隠れるのもままなりません。
逃げるラーニヤ。追う荒くれ者たち。足がすべり、慣れない運動に悲鳴を上げます。乱れた髪に、重い髪飾りが引っかかっります。太陽が傾きはじめ、ラーニヤの分の悪い鬼ごっこをハラハラしながら見ています。
心臓がバクバクしていました。のどがカラカラに渇いていました。汗が目に入って、前が見えなくなります。男たちの声が近づいてきます。だから曲がり角から手が差し出された時、ラーニヤはすべてを忘れてその手を掴みました。
「こっちだ!」
知らない男の声。若くて精悍な男の声。言われるがままに、ラーニヤは手を引かれて路地を走りました。どこかで挫いた足がジクジクと痛み出しました。
「大丈夫か?」
荒くれ者たちの声が遠くになってから、男は振り向きました。
男はラーニヤとそう歳の変わらない、若くてたくましい青年でした。顔も目つきも聡明そうなのに、身を包んでいるのは粗末な服です。ラーニヤは彼の姿を見てハッとしました。彼の左胸には、奴隷であることを示す焼印が入れられていました。
「……あ、あの」
「足、挫いたんじゃないのか?」
男にのぞき込まれ、ラーニヤは震えました。嫌悪の震えではありません。心の底から迸ってくる何かに対する、歓喜の震えでした。
「君、名前は?」
「……ラーニヤ」
「ここら辺は、君みたいなお金持ちのお嬢さんがうろつく場所じゃないぞ」
お金持ちの、お嬢さん。
「家はどのあたりだ?」
「……あっち」
暮れはじめた東の空に、王宮の屋根が見えました。
「送っていく」
「でも」
「いいから」
男は跪きました。姫に対する敬意ではなく、足にケガをした女性に対する敬意でした。
「乗りなさい」
ラーニヤは逡巡しましたが、大人しく男に背負われました。
「あなた、名前は?」
「アフィーフ」
男、もといアフィーフは、どこまでも無愛想な声で答えます。
「どこの国の人?」
「ここより西の国だ」
「遠いところ?」
「ああ」
男はそう言って、故郷の名前を教えてくれました。そこはこの王国との戦争をし、滅ぼされた国でした。
「……ご家族は?」
「みんな死んだ」
「そう……」
「俺は奴隷としてここに連れてこられた。どっかの王さまの馬鹿げた思想のために、あの馬鹿げた塔を造っている」
アフィーフはあごをしゃくって、建設途中の『神の塔』を示しました。
ラーニヤは父のことを罵倒されて腹が立ちましたが、グッと我慢しました。
「あの塔はね、神さまの元にたどり着けるように造っているのよ」
「神のところへたどり着いて何になる?」
「それは……」
アフィーフにとって、この国の民は、すべて憎い敵なのです。それはラーニヤとて例外ではありません。ラーニヤは自分の身分を明かしてはいませんでしたが、服装や身なりを見れば、ある程度の見当がついたのかもしれません。
「ねえ、アフィーフは神さまにお願いするなら、何をお願いしたい?」
「……そんなものは」
「私はね、愛が欲しいの。真実の愛。お金も権力も身分も超えた、真実の愛よ」
アフィーフはついぞ心を許してくれないまま、ふたりは王宮に着きました。
一瞬でしたが、ラーニヤはたしかに、ほんものの愛というものの何たるかに触れたのでした。
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