第81話 『この程度』

 ━━命乞いなんかされても困る。オレにはお前が命の代わりに差し出そうとしているものの価値が全然わからないんだ。


 ……自分の命になにを差し出しても守りたいほどの価値を感じていたころの記憶が、ふとよみがえる。


 どうやら弟とその婚約者がまじめに資料を漁っている姿を遠目に見るうちに、うつらうつらとしてしまったらしい。


 図書室でアンジェリーナを見つけたあと、少しばかりからかって、それからあとはオーギュストに相手を任せた。


 特別な許可が必要な図書室だったのでバルバロッサの同行も必要で、最初は自分、オーギュスト、バルバロッサ、ミカエルの四人でぞろぞろ来たのだけれど……


 バルバロッサはミカエルに戦闘指南を乞うて、ミカエルもそれに応えた。

 ……ミカエルというのは決して武道一辺倒の御仁ではないのだけれど、古びた書物の多い図書室という空間はやはり居心地が悪いらしい。なんでも、うっかり転んで貴重な資料を傷つけたりするのが怖いそうだ。


 そういうわけで、バルバロッサの求めにこれ幸いと従い、二人連れ立って練兵場にでも行ったのだろう。


(本当にあの御仁は、奇妙にかわいらしいところがあるな)


 頬杖をつきながら微笑む。


 もしも第三者の目がリシャールに向いていれば、いきなり笑った姿を何事かと思われたかもしれないが……


 もともと入室に王族の許可が必要なほどの場所だ。最初からアンジェリーナ以外の人はおらず、今、そのアンジェリーナはオーギュストとなにか難しい顔で話し合っている。


 二人は互いのことしか目に入っていないようで、リシャールの方は見ていなかった。


(……さっき頭によぎったのは……ああ、ガブリエルだったな)


『一番最初』の、ガブリエル。


 やはりリシャールの暗殺を狙って現れたあの少年に、『最初』、リシャールは本当に殺されそうになった。

 しかし、どうにか生き延びたのだ。


 当時は命乞いするぐらいに自分の命の価値を認めていたものだから、ずいぶんと醜く助命を嘆願した。

 そうしてあらゆる価値のあるものを……中には自分の持ち物ではないものさえも差し出す約束をして……


 しかし、どれも響かなかった。


 ガブリエルは、金銀財宝も、名誉も、土地も、なにもかもの価値を知らなかったのだ。

 まだまだ幼いあの少年は、王族に差し向けるために育てられた刃でしかなく、それ以外のものをすべて捨てさせられていたが……


 賢かった。


 ……悲しいぐらいに、賢かった。

 ほんの一瞬の会話だけで、あの少年は自分がいかに『欠けている』かを悟ったのだ。

『普通、興味を示すべきもの』をいくら提示されてもその価値がわからず、どうやら自分が普通には生きていけないことを悟って━━


 ━━きっと、オレよりお前が生きてた方がいい。


 見逃された。

 ……その時の顔があまりにも悲しくて、リシャールは自分を暗殺に来た少年を助けたいと思った。

 まだガブリエルという名ではなく、いずれガブリエルになる少年との、『一番最初の出会い』は、そういうものだったのだ。


(……そうそう。俺もいっぱいいっぱいで、特にガブリエルのことを考えてミカエル殿にあずけたわけではなかったんだよな)


 たまたま、子に恵まれない知り合いがいた。

 たまたま、それがミカエルだった。

 そしてミカエルは、『王族に差し向けられた暗殺者』という素性を気にしなかった。

 だから、ガブリエルはミカエルに育てられることになった。


 結果だけ見れば、それはガブリエルにとって最上の縁だったように思う。

 ……そう、『結果』だ。もっとガブリエルにとっていい縁組がある可能性についても模索したけれど、ミカエル以上の『父親』はいなかったと言える。


 というのも、ガブリエルの『欠けているところ』を、リシャールは埋めてやることができなかったのだ。

 そしてその『欠けているところ』は、あずけた親によっては、ひどくガブリエルの人格の前面を制してしまうようなものであり、時にはあえてその欠落を利用しようという者さえいた。


 ……その『欠けているところ』とは。


 ━━すまない、リシャール。

 ━━教養を身につけた。常識も学んだ。貴族らしい振る舞いも、きちんと覚えたと思う。

 ━━でも、俺はどうしても、『邪魔者を殺さない理由』がわからないんだ。

 ━━もっと他にやりようがあるし、もっと他に使うべき知識とか、技術とか、人脈とかがあるのは、わかる。

 ━━でも、俺がお前の恩に報いるために、差し出せる『俺自身の持ち物』が、邪魔者を殺すことしか、思い付かないんだ。この殺意以外、俺は、なにも手に入れられなかったんだ。

 ━━すまない、リシャール。こんなによくしてくれたのに。俺は、お前の役に立ちたいと思って自分の手を見た時、そこに粗末な刃物以外のものがなにもないことに、いつも気付かされるんだ。

 ━━すまない。

 ━━すまない……


『今』でこそ、王位継承権争いは、『優秀な第一王子』と『卒がないだけの第二王子』の戦いという評判で、第一王子が勝つだろうと言われている。

 けれど『最初』はそうではなかったのだ。


『無能な第一王子と、完璧な第二王子』


 王位を継承するのは第二王子と言われていたし、リシャールもまた、そう思っていた。

 あの、なにをさせても完璧にこなすオーギュストには絶対に勝てないのだと、最初から打ちのめされていた。


 だからだろう。

 ガブリエルは、オーギュストを暗殺しようとして、失敗した。


 でも、王位が欲しいわけでは、なかったんだ。


 ただ、争わないといけないから、争っていただけで、そんなもの、お前が手を汚そうとするほど、求めてはいなかったんだよ。


 ━━ああ、なんだ、そうだったのか。

 ━━覚えているか? リシャール。最初に出会った時のことだ。

 ━━お前は自分の命のために、いろいろなものを俺にくれようとしただろう。でもさ……


 ━━王位だけは、差し出そうとしなかった。


 ━━自分の持ち物も、そうでないものもなんでも投げ捨てて命を拾おうとしたお前が、王位だけは、俺によこすと言わなかったんだ。

 ━━だからさ、お前はきっと、王位はほしいんだろうなって。

 ━━それだけは、命懸けでもほしいんだろうなって、そう思ったんだ。


 ただ、思い付かなかっただけだったのだ。

 その時になにを差し出したのか、なにを差し出さなかったのか、それはもう、全然覚えていなかった。


 でも、たぶん、思い付かなかったという、たったそれだけのことだった。


 ……そのあとの、ひどく力が抜けたような、安心したような顔が、『一番最初のガブリエル』の顔として、リシャールの胸の中に未だ残っている。


 摩耗していく記憶の中で思い出す友人たちの顔は、どれも最後に浮かべた顔だった。


 ガブリエルはいつだって『育ての親』を模倣した。

 ミカエルを親にした時のガブリエルが、一番朗らかに快活に笑っていた。

 ……でも、それは、あくまでも仮面でしかなくって、ガブリエルはずっと、粗末なナイフだけを手に放たれた暗殺者でしかなかったのだ。

 暗殺者以外の『自分』を、リシャールでは与えてやれなかったのだ。


「兄さんはどうします?」


 ……いつのまにか、オーギュストとアンジェリーナがそばにいた。

 リシャールは目を細めて、金髪碧眼の弟を見る。


「……オーギュスト王子・・か」


「ええ、まあ、それは確かに『オーギュスト王子』ではありますが……どうしました? そのようなかしこまった呼び方をして……」


「……いや。ははは。どうにも眠りが浅かったようでな。寝ぼけていたのだろう」


「兄さんはすでに政務をこなしていますからね……しかも激務と聞きます。お疲れなのでしょう。……それで、僕とアンジェリーナはそろそろ図書室を出ますが、兄さんはどうします?」


「ん? ああ、そうだな。俺も出よう。ミカエル殿にしごかれているラカーン兵の方に興味がある。絶対にそういう展開になっているだろう。練兵場にでも行くか」


「あはは。『予言』ですか?」


「そうだな」


 ニヤリと笑って立ち上がる。


 バルバロッサの性格、ミカエルの性格、ラカーン兵の気質などをかんがみて、『ミカエルがあの優れた武技を見せれば、剣術大会も近いこの時季、きっと我も我もとミカエルに教えを乞いたがる兵があとを絶たないに違いない』と予測しただけだ。


 そう、『予言者』だなんて言っても、しょせんは、この程度。

 知っていることは知っているだけで、知らないことは、知っている材料を組み合わせて導き出すだけ。


 しかし、この程度のものが世間でありがたがられる『黄金の瞳持つリシャールの予言』なのだった。

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