第82話 『透明』
━━『王』とは『機構』にすぎないんですよ、リシャール兄上。
彼は微笑みを浮かべているのに親しみも温かみもなかった。
大きく美しい宝石を見た時に、そのきらびやかさと希少さに気圧されることがある。……『一番最初』のオーギュストの印象は、まさに気品ある大粒のサファイアを連想させるものだった。
その弟の優秀さは幼いころから飛び抜けていた。
いわく、『なにをさせても、こなす』。
どのような難しい問題であろうとも、学習し、これを解いた。家庭教師がレベルを上げれば必ずついていって、学園に通う前にはもう学園で習うべきカリキュラムに彼の学ぶべきところはなかった。
リシャールも期待されていたし、無能というほどでもなかった。
ただしそれは凡百と比べて頭半分ぐらい優秀だというだけの話。オーギュストの他者の及ぶべくもない学習能力の高さとは、比べることさえおこがましかった。
きっとオーギュストは優秀な王になるだろうと誰もが言った。
けれど、リシャールだけは、そうは思わなかった。
王位継承権をおびやかされる不安や焦りなどはなかった。自分よりよほど優秀なオーギュストが王になってくれるなら、どれほどいいだろうと思っていたぐらいだ。
けれど、ずっと違和感というか、不自然さというか、なんとも言い難い『座りの悪さ』みたいなものが、オーギュストを見るたびつきまとっていた。
それを言葉にできたのは、オーギュストがガブリエルに暗殺されかかった時だ。
自分の生命が脅かされてさえ動じないオーギュストを、周囲は褒め称えた。
勇気があり豪胆で、きっと隣の大国であるラカーン王国や、問題の火種となりかねないオールドリッチ島を抑える存在になるだろうと、そう口々にみなが言ったのだ。
けれど、違った。
オーギュストは、勇気があって豪胆なのでは、なかった。
兄弟二人だけで会話をする機会があって、リシャールはそのことを思い知らされたのだ。
━━僕がダメでも、兄上がいらっしゃるではありませんか。
━━僕にできることは、人智の及ぶ範囲のことでしかない。
━━人智が及ぶ範囲なら、
にこりと笑ってそんなことを言ってのける弟に、愕然とした。
オーギュストは、自分の価値がわかっていなかった。自分の特異性を理解していなかった。自分にできることは誰にだってできるから、自分の命に特別な価値なんかないのだと、本気でそう言っていたのだ。
人の可能性を信じていたというわけでも、なさそうだった。
━━すべての人は、国家という巨大な魔道具を動かす歯車でしかないのです。たまたま僕は『王子』という名前の、重要な部位にある部品たるよう教育を受けてきましたが……本来、そこにはまることができるのが僕だけというわけではないでしょう?
━━『王』とは『機構』にすぎないんですよ、兄上。
━━僕が欠けてもあなたがいらっしゃる。あなたが欠けても、別な者がいるでしょう? スペアが用意されているんだ。暗殺だなんだと騒ぐのも馬鹿馬鹿しい。
━━まあ、しかし、法がありますからね。国家が国家としてやっていくために組み上げられた法に従い、適切な裁きは受けさせるべきでしょう。
━━ああ、そういえば、僕を殺そうとしたのは、兄上の重用なさっていた者でしたか。
━━当然、代わりは用意してあるのですよね?
……それは、側近にしていたガブリエルの行いを謝罪するための席だったはずだ。
けれどリシャールはなにも言えなかった。
ガブリエルの助命を嘆願しようという下心もあったけれど、それもすべて、オーギュストの笑顔を見て、無駄だと悟った。
オーギュストは、『個人』を判別できないのだ。
人とはなにか? と問われれば、リシャールは『関係性をまとった者』だと答える。
人というのは最初、透明なものなのだ。そこに誰かから向けられた感情が色をつけて、個人の形を浮き彫りにする。
向けられた感情が多いほどその者は色濃くこの世界に存在感を示す。その感情の色を、リシャールは『関係性』と定義していた。
それゆえに、人とは『関係性をまとった者』で……
だから、人には、『代わり』など、いない。
……そう思っていたリシャールは、オーギュストとの間に絶望的な隔たりを感じたのだ。
この弟は、透明な世界でただ一人生きている。
国家というものが運営していれば、人などいてもいなくても構わないのだろう。
まさに王たる者だ。……それは、『水の都』を治めるおじが理想として語っていた『機構たる王』を体現してしまった、夢物語にしか出て来ないような、冷酷にして完全無欠たる為政者の姿、なのだった。
(……それが、なあ)
忍び笑いをこぼして、リシャールは意識を『今』に向ける。
ラカーン宮殿の広い練兵場には王宮詰の兵たちが集まっていて、彼らはある場所をぐるりと囲むように整列している。
その場所というのが砂の敷かれた練兵場の中央あたりで、そこではミカエルが木の剣を振るい、オーギュストと手合わせをしているところだった。
ミカエルは『火掻き棒』と呼ばれる真っ赤な片鎌槍のイメージが強いし、実際、馬上において炎そのものとなり槍を振るう姿はあまりにも有名だ。
けれどミカエルは槍がもっとも得意というだけで、剣も、短剣も、弓も、徒手格闘も、まったく苦手ではない。
むしろすべての戦闘技術が非常に高い水準にあると言える。
勝てなくて当たり前の、最強の騎士。
……それに、叫び声を上げ、転がされて砂まみれになりながら打ち掛かっていくのが、あのオーギュストだとは、『一番最初』の自分に聞かせてもきっと信じないだろう。
冷酷な完璧主義者であり、決して感情を表に出さない━━いや、感情というものが存在しているかどうかさえ怪しかった、『一番最初』のオーギュスト。
それがあんな、感情をむき出しにした姿で、特になにを賭けているでもないただの訓練に必死になっているのだ。
しかも、自国の秘された鍛錬場ではない。隣国の、隣国兵の集った真ん中で、である。
(オーギュストは、俺が王位継承権争奪戦で上回ると『負け役』をこなすように立ち回り、下回ると『王という機構』に徹するようになる……)
基本的に、あの弟は面倒臭がりなのだというのは、最近気付いたことだった。
人から与えられた役割に徹しようとするのは、それが楽だからだ。努力を嫌うのは、徒労を嫌うからだ。
力を振り絞らねばできないことは、挑もうともしなかったオーギュスト。
……それが砂まみれになっている姿など、見ていて嬉しくないはずがない。
(俺には、ああいうオーギュストを引き出してやることができなかった)
ガブリエルの欠落。オーギュストの無気力。
……どうにかしてやりたいと思わなかったわけではない。努力だってした。精一杯に支えたこともある。
けれど、どうにもできなかったのだ。
人は、自ら変わろうと思わなければ、変わらない。
リシャールでは身近な人たちの『変わろう』という気力を引き出してやることが、どうしてもできなかった。
先回りして彼らが『決定的なこと』を起こさないよう立ち回ることはできたけれど、それはあくまでも対処療法でしかなく、問題の根底はなにも解決していない。また別な時期に、別なケースで、同じ根幹を持つ問題が発生するだけだった。
(それを、アンジェリーナ嬢が変えたのだろうな)
恋が人を変える、と述べてしまうと、なんとも戯曲的というか、陳腐でさえあるのだけれど。
実際、そうなのだから仕方ない。リシャールにも、覚えがある。
(……まあ、わけがわからない言動を浴びせられすぎて、なにか歯車が狂ってしまっただけ、というような気もするが)
それはそれで、楽しいので、よし。
リシャールは笑い、それから前へ歩み出る。
「オーギュスト! そろそろ転がされるのも疲れただろう! 俺にもミカエル殿と立ち会う栄誉を回してくれ! もちろん、尊敬すべきラカーンの勇者たちにもだ!」
あきらめないオーギュストを固唾を飲んで見守っていたラカーン兵たちが、「お、おお!」と反応する。
……若者が懸命に努力する姿には、目と心を奪われるものだ。まして、勝ち目のないだけの戦いならともかくとして、ミカエルに何度も打ちかかるうち、オーギュストはいくらか『惜しい』と思わせるような動きもしていた。
しかし兵たちも『せっかく、最強の騎士に相手をしてもらえる機会なのだ』ということを思い出したのだろう。ちらほらと「私がお相手を!」「いや、俺だ!」という声が上がり始めた。
だんだんと場が混沌としてきたのでリシャールが収めて順番整理でも始めようかとしたところで、ミカエルが大きな声を上げる。
「しゃらくさい! 全員でかかって来ぉい!」
一瞬、沈黙。
それから、怒号。
木製とはいえ充分な腕力で当てれば人を殺せる武器を持った兵たちが、いっせいにミカエルに打ち掛かっていく。
リシャールはその光景を見て笑い転げた。
「はははははは! すごいな! 野盗ではなく正規兵を相手にあの啖呵が切れるのか! 本当に予想外の御仁だ!」
しかも迫り来る正規兵を相手に無双の戦いを見せているのだから困ったものだ。
……直情的なようでいて、ミカエルの戦い方はうまい。相手が殺到している状況をうまく活かして、同士討ちをさせたり、人ごみの間に消えて奇襲したりしている。
互いに充分な兵を並べて向かい合って攻め合うなら、逆にここまで圧倒的な活躍はできないだろう。……まあ、その状況ならその状況で、別の技術で立ち回るのだろうが。
「兄さん、煽るなら僕の避難が完了してからにしてもらえませんか? 危うくラカーン兵に踏み潰されるところでしたよ」
いつの間にか隣に来たオーギュストが、困ったような笑みを浮かべていた。
リシャールは口の端を上げて、
「しかし、踏み潰されることにはならなかった。お前の如才なさは本当に大したものだ」
「褒められているんだか、誤魔化されているんだか」
「両方だな! ……まあ、しかし不思議な状況だなあ。隣国で剣術大会などをするために、こうして兄弟二人、しばしの休息を楽しんでいる、というのは。自国ではなかなか、こうはいかん」
「……そうですね。まあしかし、これがきっと、今年は最後の余暇となるでしょう。しばらく国を離れてしまった償いをしなければ。継承権を争う王子が二人そろって隣国に長々と逗留するというのは、自国民の不安を煽りますからね」
「なあ、オーギュスト。お前はどのような王になりたい?」
「……この場であなたに語るには、なかなか重い質問ですね」
「ああ、内容は重いか。しかし、軽い気持ちの問いかけだ。特に政争に関係させるつもりもない……そもそも、これだけ騒がしければ、俺とお前しか聞いていないだろう。気楽に教えてくれ」
「では、兄さんはどのような王を目指しているのですか?」
「俺は全員の幸せを願っているからなあ。全員を幸福にできる王だな」
誰も死なず。誰も破滅せず。誰もがなにも、失わない。
……『彼女』が望んだ世界を体現する、王。
これはこれでリシャールなりに大真面目な答えだったのだが、オーギュストは「そのぐらいフワフワした話でいいのなら」と前置きして、
「僕は、誰が王になってもいいような王になりたいんですよね」
「……それは『王という機構』になるという意味か?」
「え? ああ、『水の都』で、おじにそのようなことを言われましたね……そうではなく。僕が王になるのは、王になるためではないので。あとの人が妙な苦労をしない程度には整えていけたらいいなと。……ああ、『透明な王』とでも、しましょうか。いてもいなくても、変わらない。そういう王ですね」
「それは━━たいそう難しい話だなあ」
「僕も言っててそんな気がしました。……参ったなあ。王様なんかよりやりたいことがあるんですけど。兄さん、僕のあとに王になってくれませんか?」
リシャールが堪えきれずに笑ってしまったのは、言うまでもない。
本当に、本当に、面白いのだ。
涙が出るほど。
今のオーギュストは面白いやつなのだった。
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