十二章 『かつて』と『今』と

第80話 『どうせ』

 ━━ねぇ、リシャール。起きてる?


 耳をそっとくすぐるような、心地いい声だった。


 だからそれは夢なのだと、すぐに把握することができた。


 この声の持ち主はいる。『今』の周回にも、前の周回にも、その前にも、そのまた前にも……ずっとずっとリシャールの近くにいた。


 しかし、この声の持ち主はもういない。


 同じ喉を持ち、同じ顔を持ち、同じ半生を過ごした者はいても、その彼女の声には親しさも愛おしさもない。なぜなら、『今』のリシャールとはほとんど関係がない人物だからだ。


 それに━━


 たとえ、『今』の世界にいる彼女と、かつてのように親しくなり、恋仲になったとしても……


 それは、『かつて』の彼女ではない。


 同じ声で、同じ抑揚で話しかけられても、結局のところ、リシャールの方が、『今の彼女』と『かつての彼女』を同じとは思えない。


 心から愛した人は、一人だけ。

『一番最初の彼女』だけ、なのだから。


「……」


 間違いなくこれは夢で、間違いなく自分は寝ているのだと、リシャールはわかっている。


 この幸せな夢から抜け出して目覚めたあと、この夢が幸福であればあるほど、起きたあとの虚脱感、絶望感、『二度と、あの一回目の世界には戻れないのだ』という思いが大きく、耐え難いものになることを、リシャールはよく知っているのだ。


 けれど。


「……ああ、起きているよ。━━エマ」


 幻とはいえこの幸福は手放しがたく、リシャールは愛おしい女に嘘をつく。


「今はまだ、資格がないようだけれど……必ず君の願いを叶えて、君の待つ天の国へ行く。だから……もう少しだけ、待っていてくれ」


 彼女は微笑んでいる。……もう、微笑む顔しか記憶に残っていない。愛する人の細かい思い出がすり減って消え失せるほどの時間が、主観的には流れている。


「きっと終わらせてみせる。……知っているだろう? 俺は飽きっぽいし、途中で遊んでしまうこともある。けれど、俺は……必ず、成し遂げてきた。今回もそうさ。だから、また会ったらその時は━━」


 微笑む彼女が肖像画のように固まっている。

 ……笑うとえくぼが深くなる人だった。こちらを見るとだんだん優しげに目を細めていく人だった。指先。その白く細い指は、会話の中でどんなふうに動いていたのか。視線は、体は、どのように……


 鮮明だった記憶は摩耗している。

 絶対に忘れないと誓ったはずなのに、どうしようもなく『彼女』が『新しい彼女』に塗りつぶされていく。

 だから、笑顔だけは、忘れない。


「━━その時は、朝食でもとりながら、他愛ない話をさせてくれ」


 彼女は笑う。

 肖像画のように。



 ラカーン王国で行われる剣術大会はかなり大規模なものだった。


 それは王家が号令をかけて王都で開催されるのだからそうだろうと言われればそうなのだが、ドラクロワ王国で同じようにしても、同じ規模のものになるかと言われると、首をひねりたくもなる。


 とにかくこの王国の人たちは、ドラクロワ王国民が当たり前に持っているものを持っていない。


 それは『王侯貴族の参加する剣術大会に平民の身で出るなんて……』というような遠慮だったり、あるいは『弱いんだからやめておこう』というようなためらいだったり、もしくは『怪我をしたら明日に響くかもな』という心配だったりする。


 代わりにあふれんばかりの情熱と好ましい積極性があり、それはこういった『祭り』の時に明らかな両国の差異となって現れる。


「オーギュスト」


 ラカーン王国、宮殿内━━


 来賓用の宮において朝食をとるためにリシャールが食堂に来たところ、そこにはオーギュストとミカエルがいた。


 ミカエルはなにかを話し、笑っている。

 それを受けてオーギュストも笑っているが、どこか引き攣った印象の笑いというか、ミカエルの大声に気圧されているような印象だった。


 この線の細い弟は騒がしいのを苦手としている。


 対してミカエルはわりと騒がしい。

 もっとも、彼の話はドラクロワ貴族がよくやる『ここにいない人物の悪い噂』のようなものではないため、聞いていて不愉快なものではない。

 しかし朝っぱらからあの元気な御仁の話を聞かされ続けるのは、おとなしいオーギュストにはじゃっかんつらいだろう。


 それもあって、あいさつをしてオーギュストの正面に座ると、リシャールは静かな話題を提供することにした。


「ラカーン王国の朝は喉が乾くだろう。俺たちはしゃべるのも仕事だ。ケアはしているか?」


 からかうような調子で語れば、弟は安堵したようにわずかな息をつき、「ええ」とうなずいて、


「……とはいえ、長いこと祖国を留守にしてしまっていますからね。今さら演説の一つ二つで、あなたとの差を埋められるとも思えませんが」


 肩をすくめて語るけれど、その口調で諦念を装いながら、しかし青い瞳には静かな闘志が燃えている。


 それからオーギュスト本人は気付いていないかもしれないが、王位継承権争奪戦にまつわる話題の時、オーギュストはリシャールを『兄さん』ではなく『あなた』と呼ぶことが増えた。


 好ましい傾向だ、とリシャールは笑う。

 この卒がないだけが取り柄だった大人しい弟は、本当に、尽きることなく『兄に勝つ』と思い続けているのだ。

 女の前でいい格好がしたいだけではない。勝利しようという意思が心の底に根付いて、そのありようの変化を口調の端々にまで及ぼすほど、本気なのだった。


「最近のお前は面白いからな。なにをやらかしてくれるのか、期待しているよ。……ところで、食事はどうだ? ラカーンの味はなかなか、クセが強いだろう? お前に合うか、少し気になっているところだったんだ」


「……肉の多さと、味の強さにおどろきますね。あと、たいていのものが歯ごたえがある」


「そうだろう、そうだろう。俺たちに出されているのは宮廷料理だし、こんなことを料理人に言えば失礼ととられるかもしれないが、いい意味で『野趣あふれる』料理だと思う。俺は好きだな。『生命!』という感じがして」


「たしかに、兄さんの好みではありそうですね」


 黄金の瞳と青い瞳が、互いを捉えて細められる。


 見つめ合い笑う兄弟に、横から野太い声がかかった。


「いやァ、それにしても、お二人は仲がおよろしいのですなぁ」


 オーギュストの横に座るミカエルが、顔の面積に比して小さめの目を見開いて、おどろいたように述べていた。


 リシャールは笑ってそちらに言葉をかける。


「我らは『王位』というものを争う間柄ではありますが、決していがみ合っているわけではないのですよ。関係は敵対ですが、敵ではない。血を分けた兄弟ですからね」


「仲良きことは好ましいことです! が、私には難しい関係のようで。敵は敵、味方は味方、という方がわかりやすくていい。槍の穂先は片側にしかありませんからな」


「どちらが勝つにせよ、アルナルディ卿の槍の穂先を向けられるようなことにはなりたくないものですね」


「いやはや、今のはそのような意味では……」


「わかっておりますよ。……最近は野生動物たちも活発だ。以前にあったような『戦略的な動き』は見られないようですが……注意は払っておくべきでしょうね」


「『予言者』のリシャール様にそう言われると、なんだかそら恐ろしいですな」


「まさか! アルナルディ卿ともあろうお方がそのようなことはありますまい。この私を予言者と言われるならば、私の黄金の目はあなたの死を映したことがないというのを告げておきましょう。あなたはまぎれもなく最強の騎士なのですから。まあそれも……」


 ……予言者と呼ばれているのは、単純に『知っている』からだ。


 リシャールは何度も何度も同じ時間を繰り返している。これは、アンジェリーナなどにも言っている通りなのだ。


 同じ時間を繰り返せば、違った展開もあるけれど、同じようなことも起こる。

 また、経験は蓄積するので、未知のことでもだいたい予想できるようになってくる。


 リシャールが人に賞賛されている能力はすべて、幾度も人生を繰り返したがゆえの経験則によるものにすぎない。

 ……まあ、経験をただの知識にとどめず、そこから応用して未知の事象にも活かしていくのも能力だと言われれば、それははばからず褒め言葉として受け取るけれど。


「……最近は本当に、私の目で見通せないことも多い。もっとも、そのほとんどすべてが『彼女』に関係することではありますが」


「アンジェリーナ嬢ですな」


 ミカエルは感情が顔に出やすい。

 なので、アンジェリーナの名を口にした彼が嬉しそうにしていたところを見るに、彼女はこのミカエルにも好ましく思われているようだと理解できた。


『かつて』。


 ……ほとんどの『繰り返し』において、アンジェリーナをもっとも嫌っていたのは、ミカエルだったと言える。

 この御仁は悪を嫌い、卑怯を嫌い、貴族という立場を傘に着て弱者をいたぶる者を嫌う。アンジェリーナはそのすべての条件に当てはまっていたのだ。


(彼女の存在は、俺の『繰り返し』を終わらせてくれるのだろうか)


 リシャールは期待している。

 けれど信頼はしていなかった。


 なにをやっても終わらないこの『繰り返し』が終わるというのが、どうにも想像できない。

 それはもちろん、アンジェリーナぐらいの大きな『異変』には、『ひょっとしたら、今回ですべて終わらせてもらえるのではないか』という夢を見てしまう。

 けれど、見た夢に裏切られすぎた。

 だからあまり信頼を寄せすぎることはない……これは長く長く孤独に戦い続けてきたリシャールが、自分の心が傷つかないように身につけてしまった防御術のようなものだった。


「……そういえば、俎上の彼女はどこに? 俺が目覚めた時点で、朝食の時間にはやや遅いぐらいだと思ったのだが」


「アンジェリーナは図書室らしいですよ。朝早くから。なんでもこの王国に来てからというもの、ずっとこもっているようで」


 答えたのはオーギュストで、リシャールは「ふむ」とあごを撫でた。


「興味があるな。俺も食い終えたら様子を見に行ってみるか」


「では、僕も一緒に行きましょう」


「……ふふふ」


「……なんですか?」


「いや」


 つい、笑ってしまって、リシャールは首を横に振る。


 ━━本当に、好ましい。


 リシャールはもう、女性を愛さない。

 操を立てるなどという立派な心がけではなく、『一番最初の彼女』以上に心が燃え上がる相手というのが現れないというだけのことだが。


(『今』のアンジェリーナは本当に好ましい。もっともそれは、『弟を変えてくれたから』という理由ではあるが……)


 彼女の影響で、もしかしたら自分も変われるかもしれない。

 終わることのない時間に囚われて、『彼女』のもとへ逝くことさえできない、こんな自分の人生も……


(しばらくはやはり、アンジェリーナ嬢のそばについて回るのがよさそうだな。なにかが変わるとしたら、それはきっと、彼女の周囲だろう)


 ちょうどそのタイミングでリシャール用の朝食が運ばれてきた。


 ラカーンの朝食はほんのワンプレートでも朝から大きい肉に香辛料をまぶしたものが出てくるので、なかなか重い。

 すぐに食べてアンジェリーナのもとに行こう━━と言おうとしたけれど、メニューを見て『すぐには無理だな』と思い直し、なにも言わずに食事を始めることにした。


 どうせ、時間はあるのだ。


 今逃した機会は、どうせ、いつか回ってくる。だから焦ることはないのだろう。


 どうせ━━


 どれだけ期待しても、きっとまた、繰り返すのだから。

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