第72話 愛の囁き
「このようなところにいたのか、我が花。俺の方は見ようともせずこのような書物ばかりに目を奪われるとはな。恥じらいはいいものだが、過ぎるのはよろしくない」
ラカーン王国の書物庫で資料漁りをしていたところ、ついにバルバロッサ王子に見つかってしまった。
アンジェリーナはあごを持ち上げてくるしなやかな長い指を半歩下がって避けると、愛想笑いのようにも見える表情を浮かべた。
笑うしかないのだった。
ラカーン王国でしばらく過ごしてみれば、バルバロッサが決してヒマではないこともわかってくる。
この王子は未だ王子ではあっても、やっていることはほとんど王なのだ。
もちろん父王とて政務執務をしていないわけではないのだけれど、バルバロッサは国家の運営のかなり深い部分にすでに食い込んでおり、中でも十ヶ年を超えるような大きな計画については、ほとんど採決権を持っている。
それは言葉にされずともわかる王位継承の確実さであった。
ドラクロワ王国の二人の王子が王位を争っている中、バルバロッサはすでに王となることが確定しているのである。
「どうした我が花。この俺の指が身に触れる至上の恍惚におどろいたか?」
褐色肌の王子は自信みなぎる笑顔を浮かべて、灰褐色の瞳でアンジェリーナを見ている。
細められた瞳は穏やかで、そこには深い愛情が感じられた。
……あの日、隠された方の目でバルバロッサを直視してしまってから、ずっとこうだ。
魅了の魔眼による魅了━━
ただ……
(魔法の効果というのは、そうそう長くはもたんはずだが……しかも、無意識に垂れ流しているだけのものでは、効果はもって数日といったところのはず……だというのに、バルバロッサはまだ我のことをこのような目で見る……)
これはアンジェリーナにとって不可解なものであった。
始まりは間違いなく魔力の影響だが、それは持続するものではない……と思う。
でも、バルバロッサ王子はずっと変わらない。
(ある程度まで調査したら、魅了が解けて我に興味を失ったバルバロッサに王宮から追い出してもらおうと思っていたが……この調子では叶うかどうか……)
「我が花、俺を目の前にしながら俺以外のことを考えているな?」
バルバロッサがずいっと距離を詰めてくる。
背が高い王子は腰をかがめるようにしてアンジェリーナに顔を寄せる。
背の低いアンジェリーナはほとんど真上から来たバルバロッサの顔を見上げ、
「いや、その……考えていたのは、貴様のことではある、が」
「ははは。なるほど、当ててみせよう。俺のことを考えてはいた。が━━どうやって俺から離れて国に戻ろうかを考えていた。そうだな?」
「……」
「なんたる不埒。なんたる無礼。だが、許す。俺は貴様のすべてを許そう。貴様が故郷を想うことも、元婚約者のことを考えることも、寛大なる俺は許す」
「ならば王宮から出ることも許してはもらえんか?」
「それだけは許さん。……なあアンジェリーナ。聡明にして無欠なる俺はな、一つ、気付いてしまったのだ」
「なんだ……」
「俺が貴様を許すまで、貴様は誰かに許されていたか?」
「…………どういう、意味だ?」
「オーギュストの話だ。オーギュストは貴様を許したのか?」
「……は? い、いや……」
アンジェリーナの困惑は正しい。
オーギュストとアンジェリーナは婚約者だ。
……けれど、かつて色々あり、その際にオーギュスト側から婚約破棄を申し出られたことがある。
それはなんだかうやむやになり、今でもまだ婚約者ということにはなっているけれど……
婚約破棄をされそうになった原因が自分にあるのだと判断したアンジェリーナは、その償いもあって、オーギュストを王にすべく協力しているのだ。
……が。
そこまでの詳しい事情を、さすがのバルバロッサでも知っているとは思えない。
『婚約破棄されたはずが、まだ婚約状態だ』ぐらいは知っているかもしれないが……
その破棄と続行のあいだにあった感情の流れは、余人にわかるものではないからだ。
というか、アンジェリーナ自身、オーギュスト自身も、人に語れるほどには整理できていない、というのが現状だ。
困惑し黙り込んでいると、バルバロッサは少しだけアンジェリーナから顔を離し、いたわるように頭を撫でて、
「問おう。俺は、オーギュストより男として劣るか?」
「……それは」
「周囲には人払いをしてある。本音を言え」
ここで『劣ります』と言えたら婚約者を立てる立派な令嬢なのだろう。
だが……
「……男として、というのは……その、考えたことがなく……」
オーギュストは素敵な王子様だとは思っている。
若く才能があり誠実で、一生懸命だ。
目標に向けて邁進の努力を欠かさないし……
あの強大すぎるリシャールという第一王子を相手に、心を折らずにいる。それだけでも応援したくなる。
だが、それは『男として』かと言われると、しっくり来ない思いがあるのも事実だった。
「再び問おう。オーギュストは貴様になにをしてくれた?」
「それは……その」
なにを、と問われて自然とアンジェリーナが思い浮かべようとするのは、バルバロッサを相手に堂々と語れる『具体的なこと』で……
なおかつ、『アンジェリーナだけのためにされたこと』だった。
……けれど、ないのだ。
だからアンジェリーナは正直にこう述べる。
「それは、我がオーギュストのためになろうと共にあるからで、オーギュストから我に対しなにかをするというのは、我自らが断っており……」
「女に言い訳をさせる男は好かん」
「……」
「オーギュストは交流回数こそ多くはないが、親しく思っていた。けれど、それもこれまでのようだな」
「い、いや、オーギュストは悪くない!」
「そして、リシャールのことは尊敬すらしていた。……だが、それもやはり、今日までだ」
「は? な、なぜ急にリシャール……?」
「あの二人は、二人とも、貴様に求婚しているはずだ」
「……まあ」
「だが、あの二人は貴様を愛でていない。……そうだな、俺の花よ。自罰的な貴様の気にいるようにバランスをとるならば、貴様はもっとわがままに要求してよかった。宝石なり花なりねだって、『紳士』としての経験が浅いオーギュストを立ててやるべきだった」
「……」
「だが、そもそも、紳士たる者ならば自ら気付くべきなのだ。貴様が身銭を切り崩して、見返りの一つも求めず真摯に支えている苦労に気付き、それに報いるべきなのだ」
「いや、身銭は切り崩しておらんが」
「たわけめ。身銭というのは比喩だ。貴様は、貴様がただそこにあるだけで得られるはずの花も、宝石も、自由な時間も、何一つオーギュストやリシャールから贈られていない。これで婚約者というのは、なにかの冗談にしか思えぬ」
「だからそれは、我の側から断ったからで……」
「だが、贈られれば邪険にはしまい?」
そう述べたバルバロッサが見ているのは、アンジェリーナの右目……
そこにはバルバロッサから贈られた、大粒の宝石のあしらわれた特注の眼帯がある。
赤い首飾りだってバルバロッサからの贈り物だし、身にまとう服も、王宮の書庫に出入りできる権利だって、バルバロッサから捧げられたものだ。
だからアンジェリーナは黙り込むしかなかった。
バルバロッサはいたわるように目を細める。
「貴様が喪服めいた黒一色の地味なドレスを着ているのを見て、何事かと思ったぞ。婚約者にあのような質素な服装をさせるなど、王子としても紳士としてもあるまじきことだ」
「いや、黒は我の趣味だが」
「ならば黒い宝石を贈ろう。貴様の輝きを前にはいかなる石も霞むが、見る目のない愚か者どもの前に出るには、貴様自身という瑞々しき至上の花を飾る小粒の石も効果を発揮しよう」
バルバロッサから贈られた宝石が、どれも『小粒』などと言える規格にないことは明らかだ。
「貴様を淑女として扱わぬあの国には帰せぬ。俺から見れば、貴様の受けていた扱いは『虐待』に他ならん。……俺は貴様のすべてを許そう。だが、貴様が傷つくことだけは許さん」
「……なぜ、出会ったばかりの我に、そこまで親身になる? 貴様もしや、すごくいい人か?」
するとバルバロッサはぽかんとしたあと……
肩を揺らして、笑った。
アンジェリーナは少しばかりの不機嫌さを声にふくめ、
「なにを笑う」
「くくく……いや、すまん。たしかにまったく、笑い事ではない。もしや貴様は、この俺が誰にでもものを贈り、『我が花』などと囁いているものと思ったか?」
「ずいぶん放蕩なのではないか? そういう気配だ」
「正直な女だ! だからこそ許す! いいか、貴様は知るべきなのだ。宝石を贈られ、そばに置かれ、未来永劫ともにあろうと髪をなでられる。……これこそが『愛される』ということだ。俺は貴様を愛している、アンジェリーナ。だからこそ、貴様に対して親身になるのだ」
「しかし、出会ったばかりだからな……」
「やれやれだ。十年先も『出会ったばかりだ』と言いそうだな貴様は。もう我が国に来て短くないというのに。それとも、それほどまでに俺は貴様を不安にさせるか? ……ならば明日からは片時も離れぬとしよう。ちょうどいい。未来の王妃としてともにいるがいい」
「いや……それは……」
「自覚を持てアンジェリーナ。貴様は愛されるに足る者だ。だが、貴様は愛された経験がなさすぎて、己に向けられている感情にはなはだしく鈍い。……まったく、苦労させてくれる。だが、許す。遅々としているが、ともに歩むとはこういうことだろうからな」
最後にバルバロッサはアンジェリーナの銀髪をひとなでして、背を向けた。
……本当に、彼はまったくヒマではないのだ。
その貴重な時間を割いて、会いに来てくれているのだ。
「…………」
どうしていいかわからなくて、アンジェリーナは押し黙る。
……ぐらぐらと、世界が揺れるような感覚がある。
慣れない国で浴びせられるまったく異質な……少なくともアンジェリーナにとって異質に思える価値観は、ひどく彼女を動揺させるのだった。
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