第62話 船上

 凪いだ穏やかな海の向こうに、一日の始まりを告げる光が見えた。


 思ったよりも時間が経ってしまったが問題はない。

 オーギュストは借りた馬の調子を確かめるようにして馬首をなでる。


 音に聞こえたアルナルディ領で育てられた戦馬は、本来の主人ではないはずのオーギュストを信頼するかのように馬首を下げ、頬擦りをする。

 そのかわいらしい仕草に微笑み、オーギュストは頭を撫でた。

 ……やはり、人を信頼している。アルナルディ領は戦馬の育て方にも秘奥があるのかもしれない。


 なにせ、ここは、船上なのであった。


 それもオーギュストが勝利すれば受け取るはずの『払暁号』の上だ。


 広い甲板の上には馬上槍試合用の柵が設けられている。

 ただし、地上でやるものよりは、さすがに短い。つまり加速に必要な距離がいくらか失われている。


 当然ながら馬は速ければ速いほどコントロールが難しい。

 しかも馬上槍試合は互いに加速した騎士がすれ違う一瞬で決着をつける競技だ。

 こちらも精一杯走っている時に、同じように精一杯走ってくる相手の速度というのは、乗馬による実戦経験を持たぬ者の想像を絶する。

『相手はまっすぐ向かってくる』のだというのに、まともに魔術で狙いを定められないぐらい、速い。


 しかし試合場の距離が短くなることにより、初心者のオーギュストでも、いくらか『最強の騎士』ミカエルに対して技量の誤魔化しが利く。


 さらに、船上は、揺れる。


 これは至極当たり前のことだが、海の上に浮かんでいる船には絶えず波が打ち寄せる。

 もちろん嵐でもない限りその動きは緩やかだが、それでも『揺れ』というのは基本的に地上での試合にはない要素━━つまり、オーギュストのみならず、ミカエルにとっても未知の状況であると予測される。


 揺れる船上、という環境において、百戦錬磨の最強の騎士と、いまだ二つ名のない第二王子とは、その経験の差がなくなるのだ。


 さらに、払暁号はすでにアルナルディ領からしばらく進み、近くには陸地のない海上にあった。


 そして船とは木製だ。すなわち燃えやすい・・・・・


 さらに払暁号というのは勝負後に受け渡しが約束されているものであり、これを灰と化すのは、さすがの『灰かぶり』でも……出力的な意味ではなく、しがらみ的な理由で、無理だと思われた。


 騎士を相手にする時にもっとも厄介で、もっとも対応の難しい戦技を封じたわけである。


 ……という状況を成立させるため、オーギュストはミカエルに対して言うべきさまざまな『説得方法』を考えていた。


 ところが、ミカエルはオーギュストから『海の上に浮かべた払暁号の上でやりませんか』と提案された瞬間、その理由を聞くことさえなく、


『どこであろうが、構いませぬ』


 と、言い切るのだから、計略を練り、状況を整えるための説得方法を考えていた身としてはたまらない。


 ……こちらが相手を状況的不利に追い込もうと練りあげた計略は、相手があまりにも揺らがないせいで、逆にこちらの心理的不利を招きつつあった。


「アンジェリーナ」


 オーギュストは馬の愛らしい瞳を見上げたまま、すぐそこにいるであろう婚約者に声をかけた。


「どうした?」


 ……堂々たる声音である。


 船上。これから試合とはいえ男と男のぶつかり合いが始まる。

 使う馬上槍の先端には衝撃を殺すために砕けやすいカバーをつけているとはいえ、当たれば骨折程度はそう低くない確率でありうるし、死の危険性もある。


 さすがにこの段階にいたり、これから起こることが死闘になりうる可能性をまったく想定できないほど、アンジェリーナは鈍くない。


 だというのに、この落ち着きよう。


 ……自分とは大違いだと、オーギュストは笑った。


 まだ、彼女を振り向けないまま、潮風に揺れる金髪を抑えながら、オーギュストは言う。


「君なら大丈夫とは思うけれど、僕はちょっとだけ、安心がほしい。……最強の騎士を相手に、こうやってせこせこ計略を練って、しかもそれでもまだ『勝てる』と言い切れない僕を、君はどう見ますか? やはり、情けないでしょうか」


 返答までは、間があった。


 ……周囲に集まり始める船たちの気配を感じる。


 ガブリエルが指揮する船団であり、領主ミカエルと第二王子オーギュストの船上馬上槍試合を見に来た、アルナルディ領の領民たちだ。


 まだまだ夜と夜明けの境目にある時間だというのに、集まりはおどろくほどよかった。


 彼らはミカエル・ラ・アルナルディの武勇を深く敬愛しており、それを見る機会とあらば朝の忙しい時間にすべき仕事さえほっぽり出してまで来るのだという。


 さすがにこの時間に集めるものだから、アルナルディ家から食事を出しているが……


 そのせいか周囲の船団からは波音でも消しきれないほどの賑わいが、風に乗って耳に届くほどだった。


 やんややんやと大騒ぎする無邪気な民たちは、ミカエルがどう・・

勝つか・・・で盛り上がっている。

 予想屋のようなものもいるようで、ミカエルのことを語る戯曲や歌から、かの御仁の得意勝利パターンなどを声高に述べて、『きっと、これこれこのように勝利するのだろう』とか、『王子は突き飛ばされ、馬から跳ね飛ばされたあと、海に落ちるかもしれない』などの声まで聞こえてくる。


 誰もオーギュストの勝利を信じていないのだ。


 オーギュスト自身でさえも、信じていないのだ。


 ここで『勝利を君に捧ぐ』と言えないところが、オーギュストの煮え切らない部分でもあり、『穏やかでそつがない』と評される部分でもあった。


 現実的なのだ。よくも悪くも。


 そんなふうに気弱な婚約者に問われたアンジェリーナは、言う。


なにが・・・勝利だ・・・?」


「……ええと、馬上槍試合は、突きが決まった方が勝者で、互いに決まった場合はカバーのあとを見てより急所に近い方が……」


「……」


「という意味じゃあ、ない、ですよね」


 オーギュストは肩をすくめて、ようやく、婚約者の方を振り返る。


 アンジェリーナは、相変わらず眼帯に包帯、真っ黒いドレスという服装で、尊大に腕を組んでふんぞり返っていた。


 この様子も最初は淑女としてどうかと思っていたけれど、今ではもう、こう・・でないと落ち着かないほど、オーギュストの中で『アンジェリーナ』を想像する時に最初に出てくるほどの姿になっている。


 いつも通りの彼女を見て。

 いつも通りの振る舞い方を思い出した。


 オーギュストは凪いだ湖面のように青い瞳を細めて微笑む。


「そうですね。僕の・・勝ち・・です。それはゆるぎません。ただ……やはり、まとも・・・にも勝ちたいじゃないですか」


 気負いのない言葉だった。


 よくも悪くも現実的なオーギュストは、勝利を確信している。……否、すでに勝利しているという調子でさえあった。


 けれど同時に、どうやっても最強の騎士には勝てないと心底から信じている。


 アンジェリーナはうなずき、


「ならば、馬上槍試合における勝利とは、貴様の無事である。……このあと我が実家へ渡るのだから、会話もできぬほど大怪我をされていては、差し支える。ゆえに、無傷で試合を終わるのだ。それこそが勝利である」


 以上! という感じだった。


 ……こう、なんというか。


 わかってはいるのだが、つくづく『大勝負に挑む婚約者を送り出す貴族令嬢』の態度ではないよなあ、という思いは禁じ得ない。


 最近聞こえる風聞において『王子たちは二人ともよき君主の器ではあり、目立った欠点もない。ただ一点、女の趣味の悪さだけは国難の要因たりうるかもしれない』などというものがある。


 たしかに貴族令嬢的なものをアンジェリーナに求めると、そういう見解になるだろう。


 だが。


 ここで『オーギュスト様のご武運をお祈りしております。どうか、ご無事で』などと、手をこまねいて、涙なんか浮かべて、今にも気絶しそうな様子で見送るような『貴族令嬢』が婚約者だとしたら……


 ……そもそも、そういう婚約者なら、今の状況がありえないので、想像が及ばなかった。


 自分が無茶な挑戦をするのは、婚約者がアンジェリーナだからだ。


 そしてそれは、『そつなく』王子をこなしていたころには味わう必要もなかった不安と緊張と━━

 高揚を、もたらしてくれる。


「君に勝利・・を捧げます」


 最強の騎士には勝てないけれど、オーギュストはそう述べた。


 アンジェリーナは「うむ」とうなずき、


「なにも考えずにぶつかるといい。最強を冠する者と本気でぶつかった経験は、なにものにも代え難い宝となろう。ただし、怪我はせぬように」


「無茶な」


「萎縮した者を蹂躙するほど騎士にとって楽なこともなかろう。ならば、勝つつもりで行け。その方がおそらく、怪我も少ない」


 その『勝つつもり』という気持ちになるのが難しいからこそ、オーギュストは苦労しているのだが……


 それでもここは、こう述べるべきだろう。


「仰せのままに、我が魔王」


 ひらりと借りた馬に飛び乗り、オーギュストは柵の設置された方へと並足で向かう。


 オーギュストのつくべき位置の対面では、すでに最強の騎士ミカエルが、馬を止めて、試合用槍の重さを確かめるように振るっていた。

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