第63話 払暁

 のぼり始めた陽光はオーギュストの背後にあり、向こうに立つミカエル・ラ・アルナルディの姿をはっきりとさせていた。


 炎のような真っ赤な髪を逆立て、顔の大きさに比してやや小さい赤い瞳をぎゅっと細めてこちらを見ている。

 平時はかわいらしくクリッとした目、という印象だが、白目に比して瞳の大きなその目は、敵対してみれば心情が読めない━━どころか人によく似た人外のなにかのようにすら感じられた。


 馬上の肉体は鎧に覆われてさえ中身の分厚さが透けて見えるようだったし、揺れる船上、さらに馬上にあってなお芯でも通っているかのように揺るがぬ上体には、馬術への習熟の深さと強い体幹がうかがえた。


 槍を握る腕の太さ、手の厚さなど、見ただけでめまいがする。

 軽く調子を確かめるように試合用の、先端をつぶし、さらに拳型のカバーをそこにかぶせた槍を振る風切り音は、波音に消されずオーギュストまで届くほどだ。


 人と人の戦などしばらくないが。

 もし、あれが『敵』として迫ってきたならば、それだけで敵軍の士気がくじかれるほどの、においたつ『最強』。


 心なしか彼がまたがる馬さえ、通常の馬より大きく見えるようだった。


(まずいな。小賢しくも練ってきた戦術が、とんでしまった)


 オーギュストは最近自覚している弱点があって、それは『本番に弱い』ということだった。

 無理もない。これまでの人生で『緊張して挑むほどの大舞台』に立ったことなどなかったのだ。


 ……もちろん第二王子とはいえ王族なのだから、公式の、人の多い場所に立ち、そこで原稿など読み上げることはあったが。


 ただし、そういう舞台で、オーギュストにとって大事なものが懸かっていたことは、一度もなかった。


『できる範囲で、無理なく』。


 第二王子としてのオーギュストは、そうするだけでたいていのことをこなせてしまうぐらいに能力があったのだ。

 リシャールという時代の寵児の敗者であることを受け入れるなら、どのようなことも余裕をもってこなせるだけの力はあった。


 実力以上のことに挑む必要性など、ない人生。


(これが馬上槍試合における『見合い』のフェイズか。たしかに、この距離でにらみつけられただけで、僕も、馬も、気圧されている)


 ……今の状況は、歯を食いしばって、実力以上を出そうとふんばるべき、なのだろう。


 でも、どうやら、それは、自分には向いていない。


 オーギュストは先程のアンジェリーナとの会話で、『普段通り』の振る舞いを思い出していた。


 だから息を長く吐いて、微笑む。


 正面から受け止めることができないなら、受け流す。

 自分は岩のような硬さも、炎のような激しさもない。


 凪いだ湖面を意識する。


 波風を・・・立てない・・・・。それが今の自分にできる、もっともパフォーマンスを発揮するためのやり方だ。


(力んで実力以上を出したところで、きっと、及ばない。ならば、実力十割を出せるよう、落ち着くべきだ)


 ……まあ、それもそれで、難しくはあるが。

 死力を尽くす方向よりは自分に相性がいいだろう。


 そうやって心を落ち着けようと深呼吸をしていたら、戦笛パイプの音が聞こえてきた。


 ぷぉー……というどこか気が抜ける音は、馬上槍試合開始の合図だ。

 これの三回目が吹き鳴らされたところで互いに互いを目指して『走り』寄ることになる。


 一回目、オーギュストは右腕に握っていた馬上槍を脇に挟むようにして、きっさきをミカエルの方へ向けた。


 ミカエルもまた同じようにしている。……はず、なのだが。あちらはなんて洗練された姿勢なのだろう。槍を備えたひとかたまりの岩のように微動だにしない。


 二回目の戦笛が鳴る。


 オーギュストはぐっとふとももに力を入れて馬の腹を挟み込む。

 ミカエルも同じようにしているはずだ。ここまでの手順は誰しも共通のもののはずだ。

 だというのに、姿だけでその実力がわからされるかのようだった。


 彼には及ばないという確信が、どんどん補強されていく。


(戦術は思い出した。馬の足を遅らせ、目くらましをし、槍の穂先を幻惑させる計画。でも……)


 この勝利を捧げるべきアンジェリーナは、すでに、なにが勝利なのか正確に把握している。

 彼女に限って、馬上槍試合における決着がこの勝負の本質なのだと見誤ることはないだろう。


 それでも勝ちたいという思いがあるのは、変わらないけれど。


 オーギュストは、欲が出ている・・・・・・のを感じていた。


 勝ちたい、ではない。


 小細工をせずに━━勝ちたい。


 それは無理なのだと、ガブリエルも、バスティアンも言う。

 まったく同意だとオーギュストも思う。


(兄なら……リシャール王子なら……きっと小細工せずに挑むのだろう。勝利への公算とか、支持率とか、そういうものなんかが理由じゃなく……)


 そうしたいから、そうするのだろう。


 ……それでなんだかんだと成功させてしまうから『預言者』などと呼ばれているのだが。


(僕にはできない。でも、そうだな。……やってみたいことを、思いつくままにやってみるというだけなら、歯を食いしばって死力を尽くすこと苦手な僕でも、できるかもしれない。だって、それは、『楽しむ』ということなのだから)


 ……最後の笛が吹き鳴らされた。


「ハァッ!」


 ミカエルが裂帛の気合とともに馬の腹を蹴り、走り出した。


 オーギュストは一瞬遅れて駆け出す。


 彼我の距離はぐんぐん縮まっていく。


 それはほんの刹那のことだろうけれど……


 オーギュストはたしかに、自分がまたがる馬と、このように話したのだと実感した。


「出会ったばかりだけれど、君を信じてもいいかな」


 馬は承諾をした━━気がした。


 瞬間、馬蹄から瀑布のような水流が噴き出した。


 それはオーギュストのまたがる馬を急加速させる。


 馬は一瞬バランスを崩しかけたけれど、すぐに持ち直し━━


 ミカエルとの距離はもう、あと少しで槍の間合いとなった。


「むおおっ!?」


 間合いに入るタイミングをずらされたミカエルが、思わずという様子で声をあげる。


 だが、それだけが声をあげるほどのおどろきの原因ではなかったのだ。

 ……かの最強の騎士の目は、この一瞬に起こったできごとをつぶさにとらえていた。


 オーギュストが馬の蹄から瀑布を噴き出させ、その勢いで急加速。

 さらに槍を振りかぶる彼の周囲に、彼自身さえ意識していないきらめきがあった。


 そのきらめきの正体は、氷の粒だ。


 この暑い時期、すでに日が上り始めている、マストさえたたんでしまっている船上。

 のぼる日を背負いながら迫り来るオーギュストの周囲だけが、まるで極寒の時期を思わせるほどの冷気を放っているのだ。


 それは空気の中にある水を凍らせるほどで、それは魔術とは思われない。


 ━━戦技。


 の、芽生え。


 まだなんら実際的な効果こそないが、紛れもなくそれは、あらゆる騎士が開眼すべき目標である、『自分だけの魔力のほとばしり』の端っこであった。


「見事!」


 ……実際には言葉を交わすほどの間さえない、一瞬のことだ。


 だから、試合中にかけられたと思われたその言葉は━━


 二者がすれ違ったあと、後方から、かけられた言葉、なのだった。


 遅れてオーギュストは胸部の衝撃と痛みに気付いた。


 ……借り受けた鎧。

 その胸のあたりにはたしかに、ミカエルの槍が命中したあとがあり……


 自分が突き出した槍の穂先には、まだ、カバーがついたままだった。


 ミカエルの槍は当たり、自分の槍は外れた。


 それがこの船上馬上槍試合の決着だった。

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