第55話 アンジェリーナの湯浴み

「お嬢様、少しお話が」


 ロシェル領━━


 戦闘を終えてロシェルの屋敷に戻ったアンジェリーナは、専属メイドのララに湯浴みをさせられていた。


 なにせ土ぼこりなどで服はどろどろなのだった。長い銀の髪にも土やらなんやらが絡まっていたし、靴底だって汚れている。


 そもそもアンジェリーナの装いは戦場に立つものではなかった。鎧もなかった。武器もなかった。『オーギュストと馬の相乗りをしていたら戦いに巻き込まれてしまいました』という様子だ。


 だから髪を洗うメイドが背後から発する“圧”はひしひしと感じていたし、説教が待ち受けているのは予想していた。


 が、それはそれとして、アンジェリーナは抵抗を試みる。


「いや、その、あからさまにおかしなことが起こっているのだ。大陸随一の貴族の娘として屋敷でのんびり待つわけにもいくまい?」


 この言い分も正論ではあるはずだ。

 だが、ララの圧は衰えない。


「お言葉ですが、我らがオールドリッチ領は『大陸の一部』ではありません。島です」


「それは、まあ、そうかもしれんが」


「それに、己の命より情報を重きにおくのは、お嬢様が、旦那様と奥様のあいだにできた唯一のお子でない場合の話です。クリスティアナ=オールドリッチ家の次期当主は、あなたしかいらっしゃらないのですよ。養子候補の方々も、縁は遠く、なおかつ男性ですし……」


 女性当主というのはまったくいないでもないが、珍しい。

 たいていは男性の長子が家を継ぐ。


 だが、アンジェリーナの家であるクリスティアナ=オールドリッチ家においては女性が家長となることが多い。


 これは現王国領オールドリッチという島が、もともとオーギュストらの国とは別の王国であり、そこが女王制だったことに由来する。

 ……王国貴族に『男性が多い』状況であるため、対外的なことを考え、渉外などの活動は父がしているが……

 領内における最高権力者は母であるし、内政においても母が舵をとっている。


 らしい。


 アンジェリーナは政治がよくわからない。

 いや、最近は勉強しているのだが、それら勉強の成果はもっぱら、情報を聞いたあとで『そういえば、そんなことを聞いた覚えもあるな』と思い出す程度であり、とてもではないが胸を張って『政治デキル』とは言えない状況であった。


(幼いころからの習慣、興味……こういったものがないと、どうにも、いかんな)


 幼少期というのは人間にとって思いの外重要な時期だと思い知らされてばかりだ。

 アンジェリーナは変化を志している。オーギュストを政争にて勝利させるため、立派な淑女を目指しているのだ。

 が、そのモチベーションは、さほど芽を出せている様子がない。政治、人脈、そういったものは気を抜けば興味を失い、配慮から抜け落ちてしまいそうになるのだ。


 弱っているアンジェリーナに、ララは声のトーンを落として言う。


「それに、鎧もなく戦場に出るなどと……せめて、わたくしをお連れください」


「……ララ、貴様、戦いの心得があったのか?」


「ありませんが、矢除けにはなります」


 ようするに肉の盾になるという話だ。


 アンジェリーナは苦笑する。


「忠節は大義である。が、貴様が死ねば誰が我の髪を洗うのだ」


「いくらでも代わりはおります」


「役割と技能で言えば、貴様の述べることはもっともである。しかし、貴様の代わりなどおるまいよ。我に幼きころより仕えてきた貴様の代わりは……」


「それをおっしゃるならば、お嬢様の代わりなどもっとおりません」


「…………なあ、この話はここまでにせぬか? そろそろ髪も洗い終わろう?」


 なにを言っても不利なので、降参した。


 ララはため息を一つつき、


「失礼、熱くなりました。ただ……最後に一つ」


「なんだ……」


「仮に、オーギュスト殿下について回っているお嬢様が亡くなれば、おそらく、旦那様も、奥様も、王国に仕えることをやめるでしょう」


「……」


 仕えることをやめる、というのは、そのまま『独立戦争を起こす』という意味だ。

 アンジェリーナの家はかつて現王国に敗北したが、それは軍同士をぶつけて壊滅させられたというような敗北ではないのだ。

 貿易封鎖をされ、兵糧攻めによる敗北である。

 当時の軍は無傷で残り、それは現代も規模を縮小していない。アンジェリーナの家の海軍による捨て身の特攻を恐れた現王国が譲歩し、もっとも優れた貴族として迎え入れる条約を交わしたからだ。


 だからこそクリスティアナ=オールドリッチ家は世代を重ねて勢いを衰えさせず、各地に海軍を派遣して貿易を守る約定ゆえに軍縮もなく、過去の反省もあって食糧の高い割合での自給を目指している。

 ……まあ、自給された食料はたいていクソまずいので、そういった面では現王国を敵に回したくはないだろうが……


 やろうと思えば戦争ができてしまう。そういう家なのだ。

 特に捨て身であれば、王国に多大な被害を出すのは難しくないだろう。


 ……これも情報だけは詰め込んだものの、あの、のほほんとしたところのある父と、美しいが目立つところがない母から、『戦争』という言葉は想像もつかないことではある。


 だが、たしかに、自分になにかあればあの人たちは報復するだろうと言われれば、そう思えた。

 自分は至宝として扱われてきた自覚がある。だからこそ、魔王として目覚める前の自分は、オーギュストを差し置いて王のように振舞っていたのだ。……今? 今はがんばっていると思う。


御身おんみの命は御身一つの命ではないのです。そのことだけ、どうか、ご理解ください」


 ララはそう言って締めくくり、アンジェリーナの髪についた石鹸の泡を流した。


 だから会話が続いたのはアンジェリーナが発言したからだ。


「ララは他領の出身だったか」


「ええ。雇用先がなかったもので、海を渡り、クリスティアナ=オールドリッチ領へ……それが、なにか」


「戦争になればララの実家も巻き込むな」


「…………はあ、まあ、そうですね」


「……なんだその『それがなにか』みたいな」


「いえ、その、言われてみればたしかに……ただ、なんと申し上げますか、あの人たちはあの人たちで勝手にやってほしいというようなところが……」


「……そ、そうか」


「……なるほど、たしかに、おっしゃられる通りです。ただ……わたくしは、なにがあろうとお嬢様のそばにいると思いますよ」


「忠節は大義であるが……」


「そうではなく。……こちらの方が、居心地がいいので」


「……そうなのか?」


「はい。特に今のお嬢様は、こうして言葉を遮ってしまってもお怒りにならず、苦言を呈しても免職になる危惧もなく……いえ、そうではありませんね」


「?」


「きっと、幼いころから見てきたあなたのことが、かわいいのでしょう。私には妹がおりませんので。さ、次はお体を洗わせていただきます。傷などありましたらお説教ですよ」


「戦場帰りなのにか⁉︎」


「戦場に出たことがそもそもいけない、と申し上げているのです。さ、抵抗なさらずに」


 ララにされるがまま、緊張しながら体を洗われる。


 人間の体は不便だ。弱いし、傷つくし、治りにくい。


 けれど湯浴みは好きかもしれない。……お説教さえなければ、だが。

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