第49話 部隊後方

「父は、私に『部隊の背を守れ』と命じられました」


 そう述べるバスティアンはまっすぐにオーギュストを見ていた。

 微笑さえ称えるその顔に、いったいなにを言えるというのだろう?


 ……奇襲があった。


『敵』の隊は伏せていた兵を地下より這いいずらせ、こちらの軍を前後から挟み込んだ。

 わざわざ最大戦力である領主ウォルフガングが戻るまで伏せていたのは、『敵』『ウォルフガングのいない時間』という殲滅に最適な機を逃したからだ、とは思えない。


『敵』は、領主とその一家を狩りに来ている。


 人が獣を殲滅させる時に、その家族をまるごと殺し切るのと同様、相手もまた、領主一家という領地の最大戦力を狩りに来ているのだ━━そう考えたほうがしっくりくるぐらいに、『敵』の動きは的確なのだった。


 この『敵』が『イノシシ』なのだから、笑いそうになってしまう。


 ……いや、もちろん、『イノシシ』というのが、民……特に農民にとって厄介な害獣なのは、オーギュストとて理解はしているのだ。

 けれどそれは兵を率いた貴族よりも弱いというのが通説だった。ただの民が徒党を組んでも勝てないかもしれないが、兵を率いた貴族ならば、たとえ相手が百体いようとも、これを壊滅させるのに二日といらない。


 有害だが対処は充分に可能な獣。

 それが『イノシシ』と呼ばれるものだった。


 そんなものに挟撃を受け、今、危機に立たされている。


 背後から現れたイノシシどもは今、まるでヒトの兵のように隊列を整えている。

 あと少しあればその作業は終わり、数十の、ヒトの倍以上もある四つ足の獣どもが、鼻先をそろえていっせいに突撃してくるだろう。


 だから、時間はもう、寸毫すんごうもない。


「殿下、どうぞ他領におのがれください。西へ向かえばミスター・ガブリエルのいる領地へたどり着くことができるでしょう」


 バスティアンがどうするのかは、明白だった。


 残るのだ。


 一緒に逃げることはできない。

 背後より敵が現れて浮き足立った部隊後方は、今、バスティアンの落ち着きになだめられるように冷静さを取り戻していた。

 ここでバスティアンを引き抜いてしまえば、部隊後方の生存確率はまったくなくなってしまうだろう。

 精神的支柱という意味でなくとも、貴族の魔力は強大だ。魔術を解禁されたバスティアンが兵力として重大なのは言うまでもない。

 ここで『ともに逃げよう』と呼びかけるのは、兵を見捨てろというのに等しい。


 バスティアンがいれば壊滅しない可能性があるのがまた、状況を難しくしていた。

 もちろん誰も、今回の『敵』の戦力を正しく見積もることができていない。

 だから『壊滅しない可能性がありそうだ』は、バスティアンの武勇や彼我の戦力差の冷静な分析からの判断ではない。


『貴族がいれば、どうにかなるかもしれない』


 この程度のものなのだった。

 これまで貴族が領地を守り続けてきた実績からのものなのだった。誰もバスティアンのことを知らずとも、バスティアンが貴族というだけで下されている予断なのだった。


 ……それは裏返せば、全員が、今回対峙している異質な『敵』を、強大に思っている、ということなのだ。


『わけのわからない今回の敵には、勝てるかどうかわからない。いや、この空気は敗色を濃厚に感じさせる』

『それでも貴族がいるならば、彼らが奇跡を起こしてくれるかもしれない』


 そういったものが蔓延しているのは、バスティアンに向けられる視線でわかる。


 ……そして。


「水くさいことを言わないでください、バスティアン」


「……殿下?」


「すでに書状は送られ、この事態は父も、兄も、騎士団長も、遠からず知るでしょう。ならば、僕がすべきことは、君と同じ戦場に立つことですよ」


 ……そして、バスティアンに向けられるのと同じ━━いや、それ以上の視線が、オーギュストにも向いていた。


 実際、今までは『どうにか落ち着いているだけ』だった部隊後方の兵たちが、オーギュストの発言を受けて、雄叫びを上げ始める。


 王子の参戦に、これまで五分五分だと思われていた勝敗の趨勢が、自分たちの方へかたむいたように錯覚さっかくしたのだ。


 バスティアンはなにかを言おうと息を吸い込んだ。

 けれど、お互いに説得の時間はない。


 だからバスティアンは吸い込んだ息を別の言葉に使った。


「誰か、ミス・アンジェリーナに馬を!」


 オーギュストの後ろに乗っている彼女を逃すためだ。

 だが、


「我はここでいい」


「ミス・アンジェリーナ、そんなことを言っている場合では……!」


「……いや、現実的な問題があってな。我は乗馬ができんのだ。ゆえに、馬を渡されても困るというか」


「貴族でしょう、あなた……⁉︎ どうして乗馬の心得ぐらいないんです⁉︎」


「心得はある。しかし……力がない」


 乗馬というのは優雅に馬に座っているだけではできない。

 くらあぶみなどの馬具があったところで、揺れる馬上というのは体力を奪う。

 特に重要なのがももの筋力だ。馬を速く走らせんと望むならば、そこから振り落とされない技術と同様、体力もまた必要になる。


 アンジェリーナには、この体力がなかった。

 ……ダンスぐらいはできるし、ドレスというのはものによっては『鎧より想い』と言われるほどで、これを着こなし動くことはできる。

 けれど馬上の疲労はそれらとは種別をことにする。そしてそれは、アンジェリーナの苦手なタイプの疲労に分類された。


 バスティアンは肩の前に垂らした濃い青色の長髪をしごくように握る。


「あなたは本当に……!」


「まあ、よかろう。オーギュストが残ろうというのに、我が去るわけにもいかん。……それに、いくらか気になることもあり、それは前線でしか確かめられん。なにより……」


「なんですか!」


「もう、来る」


 アンジェリーナの細い指が指し示す先。

 そこでは獣どもがついにその鼻先をそろえ終えて、前脚で地面をかき、今にも突撃してきそうな様子を見せているところであった。


 バスティアンはいよいよ苛立ったようにぎゅうっと己の髪を握り……

 それから、力が抜けたような息とともに、笑った。

 笑うしかないというような、顔だった。


「……あなたに生きてほしいというのは、殿下はもちろん、私の望みでもあったのですよ。それをフイにしてしまうことに罪悪感はありませんか?」


「やめておけバスティアン。『死ぬ気』というのは下々にまで伝播する」


「我らは父のように遊撃ができません。私はそこまで自在に兵を率いることができない。兄は前方警戒でここまで手が回らない。前進したところで全隊の後ろ半分しか率いれない。その薄さでは必ず突撃を通す。ゆえに、あの突撃をこうして待ち受けて受け止めるしかないのですよ。待ち受ければ、前半分の味方の背を支えに、踏みとどまることができるかもしれないから」


「ゆえにこうしておしゃべりに興じる余裕があると。……見事ではないかバスティアン。貴様の戦術眼、ウォルフガングにも匹敵するのではないか?」


「……あなたは、こんな時にまで」


「敵が我らのすぐ目の前に迫った瞬間、最前列の足並みだけ乱す」


「は?」


「我の予想が正しければ、そのぐらいが限度であろう。敵最前列が衝突の瞬間に立ち止まり、背後に続く敵の味方・・・・を一瞬押し留めたならば、勝機を見出しあたうか?」


 バスティアンは翡翠色の瞳を閉じて、数秒、呼吸さえ止めた様子であった。

 そして次に目を開いた時、その表情は変わっていた。


「……殿下」


「君を信じましょう」


 オーギュストは微笑んだ。

 いくらかの代案は頭に浮かんだ。けれど、それを口に出すことをやめた。


 なぜならば。

 バスティアンが自分を見た時、その翡翠の瞳に浮かんだ輝きは……

 彼が初めて『魔術』というものをちゃんと知って、その可能性に己の未来を見た時と同じだったからだ。


 臣下が先に進もうとしている。

 これに賭けられないようでは君主ではないと、そう思った。


 バスティアンは女性的な顔立ちに笑みを浮かべた。

 それは、父ウォルフガングが敵陣へ突撃する際に浮かべた笑みとよく似ていた。


 その笑みのまま、君主に向けて、彼は言うのだ。


「では、死力を振り絞っていただきましょう」

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