第48話 獣の軍

 獣狩りは慣れていた。


 ウォルフガング・ラ・ロシェルの初陣は十三歳のころであった。

 当時から大人と比べても遜色ない体躯をしていた彼は、父に連れ出されて『中規模のイノシシの群れ』へと挑んだ。これが初の『戦い』である。


 貴族、特に騎士団に所属する家の者は、獣の多く住まう地域を領地としていることが多い。

 もちろん事前に大量発生を避けるべく、領地の見回りは欠かせない。


 だが、獣どもは出る・・のだ。いかなる警戒もすり抜け、あらゆる予防策をくぐり抜け、数年に一度は必ず群れをなして出る。

 であるからこそ、そういった地域を治める貴族は強くあらねばならなかった。


 ウォルフガングが十三歳という、当時でもまだ『学園入学前の子供』の年齢で初陣に挑まされたのは、武門貴族流の洗礼であり、通過儀礼だったわけである。


 ……あるいは。

 体躯に優れ、自信に満ち、一対一の槍の比べあいであればすでにベテラン兵にさえ敵のいなかったウォルフガングを見て、その鼻っ柱を折ってやろうという、そういう配慮だったのかもしれない。


 ウォルフガングは自分の身の丈と比してさえ倍はあるイノシシどもが、三十もの数ひしめいている光景を見て、わずかながら恐れた。


 だが、彼にもプライドがある。……それは、今から思えば、なんとくだらなく、なんと小さなプライドだったろうと思う。けれど、当時の彼にとってはなにより大事な虚栄心だった。


 その虚栄心ゆえに『普段、自分に連戦連敗している兵』や『気弱なところをいつも小馬鹿にしているやつ』や、『自分をいつまでも一人前と認めようとしない父』の見ている前で、恐怖などにじませられなかった。


 だから、ウォルフガングは突撃した。


 それはあきらかに恐怖によるものだった。野生の獣を見て、それを初めて殺すのだという場に立たされた時に体を襲った震え。これを武者ぶるい・・・・・であると誤魔化すため、ことさら激しく叫び、馬の腹を強く叩いたのだった。


 結果は、惨敗だった。


 乗り手の恐怖は馬にまで伝播し、速度が上がらなかった。

 槍を握った手はガチガチに固まり、威力を出すために必要な柔らかさの一切を失っていた。

 もっとも大事なインパクトの瞬間には、すでに息切れしていた。対峙した段階から全身に力が入りすぎていて、大事な時にはもう手から力がなくなる寸前だったのだ。


 槍の穂先は、獣の毛皮を貫けなかった。


 まず突き刺さらなかった槍が手から抜け、その衝撃を殺しきれず馬の背から弾き飛ばされた。


 そうして情けなく落馬し、どうにか動こうとしたところ━━


 獣が、こちらを見ていた。


 動けなかった。


 目の前のそいつが無造作に一歩踏み出せば……いや、ほんのわずかに頭を動かし下あごから伸びる牙でひと突きした程度で、自分は死ぬ。

 立派な鎧などなんの役にも立たないように思われた。初めて目前にした獣は、それほどに強大な存在だったのだ。


 ……遅れて突撃してきた兵たちが獣を狩り、ウォルフガングは助かった。


 だが、あんなものとの戦いを今後も繰り返さなければならないのだと思うと、もう、貴族の位など捨てて、町に下りたいと思った。


「息子よ」


 ……その時、父から言われた言葉がなければ、きっと、『武門の貴族家当主・ウォルフガング・ラ・ロシェル』は存在しなかっただろう。


「息子よ、貴様は、体躯に恵まれ、武芸の才があり、馬の世話もうまい。しかし、貴様はあの獣一匹にさえ勝てぬ。その理由が、わかるか?」


 わかるはずがない。

 馬上の父を見上げるウォルフガングに、陽光を背負って影になった父は、息の詰まるような重い声音で告げる。


「貴様には、『誇り』がないからだ」


 それ以上は、言われなかった。


『誇り』。


 それがなんなのかは、自分で考えろということだったのか。

 それとも、言葉ではわからないものだったのか。


 今となっては、父の真意はわからないし、確かめようもないが……


 その日からウォルフガングは『誇りとはなにか』を考え続けた。

 今も、考えている。


 一生答えは出ないのかもしれないが……


 ただ、一つ言えることは。


 敵を貫くたび、力が増していく。

 傷を負うたび、笑みが溢れる。


 だから、現代のウォルフガングは、並み居る獣どもの隙間を部隊を率いて縫い、その足並みを乱すための遊撃を行いながら、号令するのだ。


「者ども、走り続けよ! 『誇り』は我らが足跡そくせきにあり!」


 ひしめく獣どもは、隊列を組み、一斉突撃の機を狙っているように見えた。

 気づけば平原に布陣され、最初に観測した五倍もの数が土中から湧き出していた。


 天上から見ればこの光景は『人対獣』ではなく、『軍対軍』に見えるだろう。

 しかも、人の側が数的に不利な、軍団同士のぶつかり合いだ。


 ウォルフガングはこの局面において、『敵に足並みをそろえられて一斉突撃されること』が敗着だと見抜いた。


 今の自軍ではその質量と数を受け止めきれない。文字通り『踏み潰されて』終わるだろう。


 だからこその、遊撃。


 敵の足並みを乱し、わずかずつ敵を削る。

 これが、自分の兵力でできる最善手である。


 ウォルフガングが先頭に立って率いる近習きんじゅう兵たちは、きらきらと輝く緑色の魔力をまとい、その速度は並の軍馬をはるかに凌いでいる。


 戦場を縦横無尽に駆けながら、触れたものを呑み込み、ずたずたに切り裂いていくこの部隊こそ、まさしく『輝ける嵐』。

 風の魔力を持つウォルフガングが先頭で部隊を率いる時、隊の速力と突破力は上がり、飲み込んだ相手を捻り潰す。


 ……だが。


 通常のイノシシの群れ程度ならば、真正面からぶつかって一瞬で轢殺れきさつできるはずの『輝ける嵐』をもってしても、端にいる数匹を巻き込む程度しかできない。


 ありえないほど、硬い。

 そして、深く敵陣に突っ込もうものなら、包囲され、逃げ場をなくされる。


 勘違いなどではない。

 敵はただの『獣』ではない。統制のとれた『獣の軍隊』だ。戦術を理解する者が率いる『獣の兵』どもだ。


 ゆえにこそ、ウォルフガングたちは止まれない。


 足を止めれば囲まれる。囲まれればすり潰される。

 自分たちがすり潰されれば、足並みを揃えた『敵』に、本体が轢殺れきさつされる。


(もう二、三、遊撃に使える部隊がいれば……)


 長男には本陣を守らせている。

 あそこで布陣している隊がなければ、獣たちは真っ直ぐに街へと向かってしまう。


 次男には応援を要請しているが、どれほど急いでも二日はかかるだろう。

 騎士団長も同様で、同じ場所にいるリシャールもまた、そうだ。


 ……そもそも、ウォルフガングの部隊からして、本来は平原にくつわ・・・を並べて布陣し、獣の群れに向けて突撃するという戦法をとる。

 率いているのは『隊の練度ゆえに遊撃もできる部隊』でしかない。


 そもそも、通常、獣相手に遊撃などしない。

 並んで突撃すれば終わりなのだ。一度突撃すればほうぼうに逃げようとするその背を追いかけ順番に狩って行くだけの相手なのだ。

 遊撃隊など育てているはずがない。


(休憩なしで、どこまでもつか。休憩が必要になるまでに、相手がすぐには突撃せぬほどに、数を削れるか)


 全軍の勝利条件は『敵の殲滅』。

 それを達成するための方法は『応援が来るまでの時間稼ぎ』。

 時間稼ぎをするためには『敵に統制のとれた突撃を思いとどまらせ続けること』。

 そのために必要なのが、ウォルフガング率いる精鋭による遊撃で……

 全軍の勝敗は、ウォルフガングの隊が潰れるまでに、どれほど敵を減らせるかにかかっているのだ。


(…………死力を振り絞れば、届く、か)


 敵の数と、削るペース、自分たちの疲労を分析し、ウォルフガングは結論した。

 その概算は、相手が『軍』を理解していること前提で行われたものだと、ウォルフガングは自覚している。

 つまるところ、一、二割も損耗が出れば戦術を練り直すだろうと、そこまで頭が回る相手だと、そういう前提で立てたものだ。


 獣相手に。


 だが、それを間違いとは思わない。ウォルフガングはもはや確信している。自分たちが向かい合っているこの連中は『ヒト並』の知能を持ち、なんらかの目的意識を持ち……

 そして、誇りを胸に命を賭してこちらを狙っているのだと、確信している。


 今まで狩り続けてきた獣を相手に、すぐさまここまで認識を改められる思考の柔軟性。

 ……くだらない『虚栄心』を若いうちに折られ、真の誇りとはなにかを悩み続けてきたからこそ、ウォルフガングはここまで考えることができた。


 ただし、それは。


 まだ少しだけ、甘かった。


 ウォルフガングは敵が戦術を理解し、部隊運用をきちんとやってのける、というところまでは見ていたが……


 戦略を理解し、部隊配置・・・・でこちらを詰みに来るというところまでは、さすがに、考えることができなかった。


 ━━本隊を配置させている側から、動揺の叫びが起こる。


「なにがあったかわかる者、あるか!」


 遊撃中でせわしなく動き続けるウォルフガング隊。その先頭にいるウォルフガングは、ちょうど、叫びが上がった時に本隊方向に背を向けていた。

 振り返っても隊列を組んで続く仲間が邪魔でそちらが見えなかったのだ。


 しばしあって最後尾から馬を加速させ兵が出てくる。


 その兵は兜の下から、告げた。


「報告! ほ、本隊の背後から、獣どもが現れた様子!」


 ……歴戦の兵すら声に震えがあるのは、疲労ゆえか、それとも、動揺ゆえか。


 だが、責めはできない。ウォルフガングもまた、一瞬、自失した。


 たしかに伏兵は最初、やられた。

 陽動を受けたところで背後を突かれ、犠牲を出した。

 警戒はしておくべきだったと後世の史家が述べるならば、たしかに、後世の者ならばそう思うだろう、とウォルフガングもうなずく。


 だが。


 だが、今のタイミングの伏兵は━━


(敵は、部隊がこの地でこうしてにらみあう前提で最初から策を立て、遊撃を受けながらも部隊を潜め続け、我らの隊が簡単に本体に戻れぬ距離に来るまで待ってから、背後に伏せていた部隊を、出した、ということではないか!)


 それは。

 人間並の知能、どころではない。


 並のヒトよりよほど優れた、戦略眼。


 勝負が始まる前から戦場を想定し、部隊の人数を把握して陣の伸び方を把握し、ウォルフガングが近習きんじゅうを率いて遊撃に出るところまで読み……

 それ以前に、ウォルフガングとその近習がそういった行動をとるぐらいの戦力を有すると知り、部隊の規模さえ知られていた。


 情報戦。

 戦略。

 戦術。


 諜報、軍師、現場指揮官……

 なにより、それらを束ねる『王』でもいなければ、とても、不可能な……


(戻る……のは、読まれているか)


 背後を見れば、イノシシどもの布陣が分厚くなっている。

 これでは前へ進むしかない。


(バスティアン、オーギュスト様……!)


 進んで、指揮官を見つけ、その首をとるか。

 あるいは無理にでも戻って本隊に合流するか。


 ウォルフガングは決断を迫られていた。

 獣を相手に。


(……なんと、魔に魅入られたかのような……現実的ではない……現実、なのだろう)

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