第47話 獣の貴族
「思えば、最初の段階で、我らは『誘い込まれた』のでしょう」
重厚な黒い鎧をまとったウォルフガングが駆る馬の足は速く、それは騎乗主の内心の焦りを反映しているかのようであった。
ごうごうと耳のそばを風が通り抜けていく音はかつて感じたことがないほどすさまじく、油断すればすぐそばにいる人の声さえも、風に流れて消えてしまいそうだった。
相変わらず日は中天に座していて、地表をじんわりと焼くような気候のままだ。
肌寒さを覚えるのは速さが生み出す向かい風のせいだけではないだろう。
たしかに、なにか、いる。
殺意だの気配だの、そんなものがわかるほどオーギュストは武に精通してはいないが……
それでもなにか、理外のモノがこの先にいるのだという、腹の底がぞわぞわするような、名状し難い感覚がたしかに強まっていくのを感じていた。
オーギュストがウォルフガングに引き離されずについていけているのは、騎乗技術によるものではないだろう。
ウォルフガングに世話をされ、愛情を注がれた戦馬が、この名状し難い恐怖を感じて、主人から離れないよう必死で追い縋っているゆえだ。
「連中は……最初、目立つ動きで我らを陽動し、背後を突いたのです」
「そ、のようなっ……ことを、獣が、する、でしょうか……!」
あまりにすさまじい向かい風は、オーギュストの言葉を途切れさせ、必死に主人に追い縋ろうとする馬の躍動はオーギュストの呼吸をさんざんに跳ねさせた。
ウォルフガングの言葉の乱れのなさと比べればひどいものだ。
これはそのまま、乗馬技術の練度であり、体幹の強さであり……
時には『走りながら部下に指示を出さねばならない』状況におちいる部隊指揮官として過ごした年数の差が生み出した違いであった。
「そう、獣は、そのようなことをしないのです」
ウォルフガングは言い含めるように告げ、
「ゆえにこそ、私の名で書状を出し、各所に協力を求める必要がありました。『輝ける嵐』というのは過分な二つ名ではありますが、この名には積み上げた実績があります。仮に息子が『獣が戦術を用いた』と述べれば『若造が魔に魅入られた』と一蹴されるでしょう。けれど、私ならば、耳を傾ける者もいるはずです。ですので私は、オーギュスト様にお許しいただく役割もあり、いったん屋敷へ戻ったのです。当主の印を書状に記さねばなりませんでしたから」
「王家に、その報告は……」
「現王はもちろん、すでにリシャール殿下へも。今は、アルナルディ家へ出向いていらっしゃるということなので、そちら向けにも送りました」
アルナルディ家は現在の騎士団長家……すなわちガブリエルの家だ。
ガブリエルはオーギュスト派になったし、家にはその旨を説明しに向かった。
だが、それでもアルナルディ家としてはいきなりリシャール派から乗り換えるわけではないのだろう。……現騎士団長は政争にうんざりしていると聞いたが、うんざりしているからこそ、腰の重さもあるのかもしれない。
……そして、説明を受ければ受けるほど、ウォルフガングがこの事態をどれだけ重く見ているかがわかってくる。
通常、自領における『武力的問題』に他家を介入させたがらないのが武門の貴族だ。
だというのに王家の者を招きながら血縁者全員で出陣し、さらに騎士団長や王家、さらには王子にまで書状を送っている。
だから、オーギュストは質問を思いついて……
口にするのにためらいを覚えながら、告げた。
「いったい、どれだけの犠牲が出たのですか?」
「半壊です」
「……それ、は……」
「最初に背後を突かれ、一割ほどの犠牲を出しながらも立て直しました。敵の包囲を抜けるのにさらに兵を削られ、陣形を整え対峙するまでに四割の兵が戦闘不能、うち一割近くが死亡しております」
異常、と呼べる被害だった。
そもそも、貴族は平民より強く、貴族の私兵たちは貴族ほど強くなくとも平民よりはだいぶ強い。
その強さを分けるのが魔力というものの存在だ。
騎士系の家は魔術を使用するのを嫌う。が、だからといって魔力は持ち腐れになるかといえばそんなことはない。
魔術を使わずとも、魔力があるだけで肉体は強くなるのだ。身体強化の魔法を使うから、というわけではない。魔力というエネルギーの保有量が、物理法則を無視できる範囲を決めるのである。
魔力のない者が己より重く大きい相手に体当たりをされた場合、当然、押されるし、重量差、速度によっては吹き飛ばされる。
それが尋常の物理法則だが、魔力があればこれを無視できる。
人は魔術という形式をとらずとも魔力によって無意識に『現実の書き換え』を行えるのだ。
……が、それには精神性や『思い込み』が重要な役割を負う。
つまるところを、魔力量が同じ二者が戦った場合、より強く『自分は勝つ。自分は強い』と思い込んでいる方が勝つ、というようなことが起こる。
だからこそ、『獣の戦術的動き』は魔力のある兵たちの動揺を誘い、『勝てないかもしれない』という不安を招き、被害を大きくしたのだろうと思われた。
……もちろん獣の方に魔力があれば、現実の書き換え合いが起こり、より多く魔力を持ち、より強く己を信じる方が勝利するのも、言うまでもないだろう。
ただ、通常の獣は魔力を貴族ほどには持たないし……
なにより『己を信じる』などという精神活動とは無縁だ。
人を人たらしめるのは『信念』であり『誇り』である。少なくとも多くの貴族はそう信じており、それゆえに貴族は強い。
身の丈の倍もある獣を恐れずにいられるのは、『獣には誇りがないゆえに、貴族より弱い』というのが大きなファクターを占めている。
……だから、今回の被害を思えば、『ある可能性』を思い描くこともできる。
「獣が、知恵をもって、人を敵と定め、これを殲滅しようとしている可能性がある」
ウォルフガングの述べたことは、貴族社会を知る者たちを震えさせた。
知恵を持ち、敵と定め、殲滅を志す。
それは信念であり、これを掲げる獣には、誇りがあるかもしれない。
……信念と誇りによって貴族は強いとされている。
ならば、それは『獣の貴族』と呼ぶべきで……
「……そんな、馬鹿な」
オーギュストは思い至って、つい、口からこぼした。
ウォルフガングは落ち着いたままだ。……あまりにもイヤな冷静さ。
「そう思われるのも無理はありますまい。私とて、思考の飛躍を指摘されたのならば、それを認めましょう。今回、獣どもが戦術的動きをしたのが、そう見えただけの偶然であり、すべてが私の杞憂ならば、それで構わないのです」
「……」
「けれど、杞憂でなければ、これは国家の一大事となります。……認識の甘さ、初動の遅れ……そのようなものがあれば、民が被害を受ける」
「……ええ。失礼を、ラ・ロシェル卿。不用意で短慮でした」
「……いえ。私も、その反応を想像したゆえに、この鉄火場でわざわざ家に戻り、当主の印をつけた手紙を送らざるを得なかったのです。それに……この状況はさすがに、心がざわつきすぎる。ゆえにこそ、私は答えを誰かに出してほしかったのです。あの
『黄金の瞳持つ者』というのは、オーギュストの兄にして対立候補のリシャールのあだ名の一つだ。
つまりリシャールは、『この異常事態でさえ、正しい答えを見通せるのだ』と、そうウォルフガングに信頼されている、ということになる。
オーギュストは自分がしてしまった『あまりにも普通の反応』を恥じた。
貴族的教育を受けてきたならば、今、自分がしたように、まずは『馬鹿な』と、信じられない、信じたくない、と感じるのがたしかに普通なのだ。
だがそれが『王たる者の反応』かどうかと問われれば……
「求心力」
オーギュストの背後で、ささやくような声があった。
それはオーギュストと同じ馬に相乗りしている、アンジェリーナのものだ。
……もちろん置いてこようとはした。けれど、アンジェリーナを説得していると、ウォルフガングに置いていかれそうだったので、仕方なく連れてきた、というのが正しいだろう。
もちろんオーギュストは紳士としてアンジェリーナを守るつもりだ。
けれど、アンジェリーナは鎧もなく、また、事態はオーギュストが当時想像していた『最悪』よりだいぶ悪そうに思えた。
今から引き返すべきか、という迷いはオーギュストの中にあった。
けれど馬の足はどんどん速さを増し、腹の底に重くのしかかるような不気味な重圧はいや増しに増している。
その気配に背を向けることはもはや恐怖だった。……それに、王を志す者として、これより向かう先にあるものを実際にこの目におさめておく必要性も感じている。
この状況でアンジェリーナのために引き返すと提案するのを彼女は認めないだろうし、どこかで馬から下ろして待っていてもらうというのは、いかにも危険なのは誰だってわかるだろう。
だから仕方なく、オーギュストは自分の背後のつぶやきに耳をかたむける。
「獣を魅了する獣……本能を捻じ伏せさせる獣……これは、やはり……いやしかし、この時代にはいないという……」
アンジェリーナの声はささやくようで、背中に彼女のほおがくっついていなければ、しゃべっていることもわからないだろう。
オーギュストでさえ舌を噛みそうなほど揺れる馬上だ。アンジェリーナに詳しく話を聞くには……
彼女と会話するにはいったん馬を止めないと、とてもではないが、体の小さく力の弱いアンジェリーナは、はっきりした声でしゃべることはできないだろう。
もちろんここで馬を止めればウォルフガングに置いていかれるし、馬もまた、主人たるウォルフガングと離れるような行動をとってくれるとは思えなかった。
「……バスティアンも、遅れなかったか。オーギュスト様、じきに自軍の最後尾に合流します。あなたはそこで馬を止めてください」
「ラ・ロシェル卿はどうなさるので⁉︎」
すると、ウォルフガングはオーギュストに向けた顔を、獰猛にゆがませる。
それが『笑み』だと判断するのに、一瞬、間が必要だった。
「戦場において、貴族の役割は一つしかありませぬ。すなわち……『誇りを示す』こと」
「……」
「獣狩りの中で、兵どもは、我が背を見てその戦に誇りがあることを知るのです」
すなわち、最前線へ。
漆黒の鎧をまとった大男は、自軍の最後尾にたどりつく直前、右手をすっと横に出し、
「兵ども! ウォルフガング・ラ・ロシェルの帰陣である! 我が槍をこれに!」
すぐさま鎧すがたの兵が馬を駆って並び、うやうやしく主人の手に槍を差し出した。
走りながら受け取った漆黒の馬上槍を高く掲げ、ウォルフガングは馬の足を止めずに叫ぶ。
「バスティアンは部隊の背を守れ! 我が
オーギュストとバスティアンが馬を止め、駆け抜けていくウォルフガングをながめる。
彼の行く先は兵が動いて道ができ、そこを通ってウォルフガングと屈強な兵たち数十名が駆け抜けていく。
あっというまに陣を貫いて最前線へ出た彼らが通ったあと、陣は閉じ、その様子が見えなくなってしまった。
ただ、大地を揺らすほどの雄叫びの発生源がだんだんと前の方に移動していくので、どのぐらいの位置にウォルフガングがいるのかはわかった。
「……そういえば、彼は『一人』で戻ったのですね。供回りも連れず……」
ウォルフガングの近習はどうにもこの部隊における主戦力のようで、彼らをここからはがすより、多少の危険性に目をつむっても単独で戻る方がいい、と考えたのだろう。
いったん鎧を脱いでいたのは、王族であるオーギュストへの礼節よりも、『そのほうが手紙を書くのが早くすむから』だったのかもしれない。
……とにかくウォルフガングは合理的なのだ。
噂に聞いていた『頭の固い、次期騎士団長を狙う、武断の者』とはかなりイメージが異なる。
加えて言えば、『未知の強敵を前に領主家の当主がたった一人で前線を離れて屋敷に戻る』という、並の者ならば逃亡を疑われそうな行為さえ、兵たちは受け入れていたのだろう。
その武勇と使命感へのなみなみならぬ信頼が見てとれる。
「父は、家の存続をなにより考えています」
少し遅れて追いついたバスティアンが、肩に乗せて前におろした深い青の長髪を一房つかんで、しごくようにしながら、答える。
「……誇りと信念。それが家を存続させるものであり、それは騎士としての肉体と精神の中にこそ宿ると信じて疑っていないのです」
「……なるほど。しかし……そのような人に、よく僕を招かせることができましたね」
貴族というのは、通常、『断固としている』ものだ。
誇りや信念がそのまま戦力につながるのだ。ならばこそ己を疑わぬように教育を受け続けてきているのは、当たり前と言える。
その中でも武門の家は窮地でこそ己を信じねばならないので、考えを変えることが滅多になく……
実際にウォルフガングを見てみれば、それが自分の支持せぬ派閥の王子を家に招くというのは、どういった心境によるものか、首をかしげてしまう。
バスティアンは言いにくそうに翡翠色の瞳をうつむけ、
「……それは……一方で、父は、誇りや信念と同様に、あると思っているものがあるのです。というより……『それ』が時には誇りも信念も努力も無に帰して、まったく意図せぬ結末を招くものと、懸念しているのです」
「……『それ』が、僕を招くにいたった理由、ですか?」
「はい。『それ』を……『天運』と、父は呼んでいます」
「……」
「不敬な物言いになってしまいますが……父が私を殿下の側につけたのは、この『天運』を恐れてのことなのです。誇り、信念において殿下よりはるかに勝っている……と、父が考えるリシャール様がもしも『天運』により敗北した際に備え、私とオーギュスト殿下によしみを通じさせておこう、と、そのように」
「なるほど」
オーギュストは笑うしかなかった。
……こういう、窮地に近付くほど、自分が『ただ、普通に優秀である』という程度の存在だと思い知らされてしまうからだ。
たしかに兄リシャールであれば、ウォルフガングとともに最前線へ行き、あっというまに敵の長を倒したような、そんな気さえする。
……少なくとも、最後尾に配置されて安堵するなどということは、なかっただろう。
「……ああ、強大ですね」
目の前の兵たち。それを率いるウォルフガング。
獣の前において、彼らは味方だ。この分厚い兵たちの陣容は、最後尾から見ればとてつもない安心感を与えてくれる。
しかし、兄との政争において、これは、オーギュストに正面と槍の穂先を向ける軍団なのだ。
……もちろん、武力衝突があるわけではない。王位継承権争いは、国力を疲弊させない範囲により行れる。
だが……
今までは『ただ、すごい』という程度だった兄の『すごさ』が、どんどん現実感を増していっている。
それを前に心折れないようふんばるのは、なかなか、大変なことだなと思われた。
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