第39話 信念

「オーギュスト殿下━━」


 苦い顔をした、三十代半ばの男性が目の前にいる。


 ベルトラン。


 彼は水の都の領主であり、エミールの父であり、オーギュストのおじ・・にあたる人物だ。


 容姿はかなりオーギュストに近い。

 というよりも、エミールがあと数年もすればなるであろう姿がオーギュストであり、オーギュストが大人になり世間に揉まれ子を持って落ち着けばなるであろう姿が、目の前の男性というような気さえした。


 長い金髪を顔の横に垂らすようにしたベルトランは、ラタンの椅子に掛けたままの状態で、顎髭をなでている。


 それは言葉を探すような沈黙だった。


 掛ける言葉を見つけるために顎髭をたぐる動きは、三回、五回、七回と増えていく。

 魔道具ではないランプの中で炎がゆらめくたび、執務机のところに掛けたベルトランの影もゆらめき、大きくなったり、小さくなったりしていた。


 ……息詰まるような、暑い夜だ。


 オーギュストは服の襟をゆるめたい衝動を必死におさえた。


 かすかに立ち登るロウソクの甘い香りは、こんな重苦しい空気の中でもなければ心地よく鼻腔をくすぐるのだろうけれど、今はただただ、胸に詰まるように粘っこく思えた。


「殿下」


 もう一度、ベルトランは殿下プリンスと繰り返す。


 通常は自分が支持する王子を殿下プリンスと呼び、支持しない王子は単にミスター付けで呼ぶものだが……

 水の都の領主とその妻だけは、どちらの王子も殿下と呼ぶ。


 だから、ここで殿下と繰り返したのは、味方であることを示す符牒ではない。

『王子という立場を自覚しろ』と、そういう意味がこもっているのだろう。


「恐れ多くも」ベルトランは言葉を探しながら続ける。「偉大なるシャルルの御世から、この国はさまざまなものが変わりました。そうした変化の中で始まった新しい決まりは、なるほど、あなたたち若い世代にとって我慢ならない不自然さを帯びるものかもしれません」


 偉大なるシャルル。


 それは、オーギュストたちの曽祖父の名だ。

 つまり王位継承者を二人以上並べて継承権を争わせる形式を作った王である。


 その形式の中で最初に王位をとったのが、オーギュストたちの祖父なので、『祖父の代から王位継承権争いという伝統が始まった』と言われているのだった。


「王家も、貴族も、ことさらに伝統と格式を重んじるものです。その中で、ほんの百年ほど前に始まったものは、なるほど、違和感も覚えましょう。ですが……伝統や格式を重んじる王家、貴族が新しく始めることを受け入れるほどのなにかがそこにはあるのだと、どうか、想像していただきたい」


「つまるところ、仮面について詮索するのは絶対にやめろ、ということですね」


 オーギュストは肩をすくめた。


 王子と地方領主との対話である。

 が、領主は着座したままで、王子は立たされたままだ。


 それはオーギュストとベルトランの続柄以上に、この領地とそこの領主の特異な立ち位置が関係している。


 完全中立。

 ゆえの独立した権力。


 ここ『水の都』は王国のいち所領ではあるが、形式的には王国内部にあるもう一つの王国とも言える。


 それゆえに、今しているのは、『他国の秘伝の家宝の来歴の情報を求める』という目的の外交にも等しい。


 ……もっとも、オーギュストの後ろで立っているアンジェリーナは、『やけに緊迫しているな』という程度にしか理解していなかったりするのだが。


 オーギュストは肩をすくめ、


「しかし、エミールが被るぶんにはいいのでしょう? 少し見せてもらいたいと僕が述べただけで急にそこまで警戒されるのは、違和感があります」


「エミールにも、もう二度と被らせません」


「それは、彼が昔、一度被ったことがきっかけでそうなったのですか?」


「殿下、どうぞ、詮索なさらないでください。……王位継承権争いの決着がつき、もしもあなたがここの領主となるならば、その時にこそお伝えします」


「しかし、僕は勝つつもりでいます」


「ならば生涯知ることはないかと」


「では、こうしましょう。僕は敗北を認めます。王位継承権をあきらめ、ここの領主におさまりましょう」


「なに⁉︎」


 おどろいた声は、アンジェリーナのものだった。


 オーギュストは振り返って微笑み、


「玉座よりもここの方が、君の欲しいものに近そうだ。前々から述べている通り、僕は玉座それ自体には興味がないんです」


「いや、しかし、それでは……」


 アンジェリーナはどう述べていいかわからず、言葉に詰まる。


 そうして降りた沈黙に、コン、コン、コン、という小さな音が響き渡った。

 ベルトランが、人差し指で執務机を叩いている。


 ほんのわずかな動作。ほんのわずかな音。


 だというのに、ベルトランのまとう怒気がふくれ上がり、あたり一帯を包み込んだような気がした。


「殿下━━」ベルトランの青い瞳が、ほのかに発光しているようにさえ感じられる。「━━殿下、おそれながら申し上げます。あなた様は、今の発言一つとっても、玉座はおろか、ここの領主にさえふさわしくない」


「……」


「自覚はおありのようでなによりです。よろしいですか、殿下。昨今の殿下の評判は、この都でまつりごとを執り仕切る私の耳にも届いております。……曰く、『毒婦に狂わされている』と」


「ベルトラン、お叱りは受けましょう。けれど、その前にアンジェリーナを部屋から下げても?」


「いいえ。ミス・アンジェリーナにもここにいていただく。……聡明な殿下がよもや、と思っておりましたが……こちらに来て、その様子を拝見し、噂は誤りではなかったものと確信いたしました」


 ベルトランの瞳は冷たい光を宿したまま、オーギュストからアンジェリーナへと向いていた。


 ここでようやくアンジェリーナは『毒婦』が自分を指した表現だと気付く。


(たしかに、我ながら、音に聞こえる毒婦っぷりよな……)


 と、かつての━━魔王として目覚める前の自分を思い起こしてみたのだが、


「その毒婦はオーギュスト殿下に数々の奇行をとらせたのみならず、リシャール殿下の懐刀たるガブリエルまでたぶらかしたそうではありませんか。さらに、例の家・・・のバスティアンまでもが、実家の方針に逆らい始めたと。それらはすべて、毒婦に影響されてのことだと、そう聞き及んでおります」


(どう聞いても魔王と成ったあとの我のことだな……)


 毒婦。

 毒婦。


 ……全然しっくりこない。


 もっと女性的魅力を前面に押し出して、色仕掛けで男を狂わせるのが『毒婦』という言葉に付随するイメージだ。

 だがアンジェリーナは色香を使った覚えがない。つい、首をかしげそうになる。


 昔の自分ならば貴族令嬢としての立場や容姿をさんざんに利用していた気もするのだが、最近はそちら方面はさっぱりだ。

 というか魔王の倫理観として、婚約者がいるのにそれ以外に媚びていくのはどうかと思うし、そもそも、誰かに媚びること自体もどうかと思う。毒婦というのはなんていうか、いかにも媚びてそうで、やっぱりイメージに合わない。


 ベルトランはため息をつき、


「……それでも、オーギュスト殿下が王位継承に熱意をかたむけられたのならば、いいことだろうと思っていましたが……どうにもあなた様は、一貫性も計画性も信念もなく、ただ毒婦の言いなりになっているだけのようだ。そのような者を、王や領主にするわけにはいかないのです」


(たしかに、王位を目指す方向で努力していたのに、急にそれを捨てるというのは、一貫性がないな……)


 オーギュストが王位を心から欲しているわけではないことは知っている。

 王位はいずれ捨てるために目指すものであった。これも事実だ。


 けれど、ここまで、王位を目指して努力を重ね、仲間を募った。

 それは思いつきで簡単に捨てられるような道程ではないはずだ。


(というか卒のないオーギュストならば、これほど堂々と、いかにも叱責してきそうな相手の目の前で『じゃあやめます』と言いそうにはないのだが……)


 たとえばオーギュストが『水の都の領主』というものに魅力を感じて、そちらに自分の本分があるのだと思ったならば、それを応援することにアンジェリーナは迷わない。


 だが、どうにも、そういう感じでもない。その軽さは大いに気になるところであった。


 アンジェリーナが黙り込んでいるせいか、部屋にいる者たちの視線すべてがオーギュストへ集まっていった。


 オーギュストは柔和な━━先ほどの発言のあとだと軽薄にさえ見える笑みを浮かべたまま、


「二点、否定を」


「……うかがいましょうか」


「第一に、僕は熱意を持って玉座を目指したことは、今もって一度もありません」


「……なんですと?」


「僕が熱意を傾ける目標は他にあり、その途次にあるのが玉座なので、仕方なく玉座をも全力で目指している━━というのが、正確なところです。つまるところ、玉座を経由せずに目標にたどり着けるならば、僕はそこに拘泥しない」


「その目標とは?」


「先にもう一点の否定を。……僕は聡明ではありません。ただ、情熱がなかっただけなのです。大人しく、与えられた課題をこなす僕の姿は、僕の中に情熱というものが欠けていたゆえに見えていたものなのです。僕が周囲の期待に応える以外に━━いえ、それにさえも興味がなく、生きる時間をもてあましていたがゆえに、第三者からはそう見えていたというだけの、虚像なのですよ」


「……」


「そして、新しい質問にお答えしましょう。僕の目標はアンジェリーナです。なので、毒婦に狂わされているという一点において、否定しがたいものがあります。目の前の女性を『毒婦』呼ばわりする無礼については、厳重に抗議させていただきますが」


「ならば、あなたは玉座にも、この椅子にもふさわしくない」


「ではベルトラン、あなたはなにを心に抱いて、我が父と王位継承権争いをしたのですか?」


「そのような話はしていません」


「いいえ。あなたがしているのは、『そのような話』なのです」


「……」


「あなたはリシャールという男をまったく知らない」


「知っていますとも。小さなころから、見て来ました」


「いいえ、知らない。あれが敵に回った時の恐ろしさをまったくわかっていない。あれと争えと言われた僕の胸に去来した絶望感を、なにもわかってはいない」


「……」


「ただ『こなす』だけで、あんなものと争えるとお思いですか? 周囲にそう望まれたから、そのために役割をこなさなければいけないから━━その程度の理由だけで正しい王位継承権争いが成り立つとお思いですか?」


「王とはそういったものです。民の期待を背負い、望みを背負い、それに応えるべく……」


「理想の話はしていません。現実の心情の話をしています」


 そこでベルトランは口をつぐんでしまった。

 オーギュストは優しく微笑み掛けて、


「理想は、僕とて理解していますとも。継承権争いは、王家という長い歴史を持つ家からすれば、まだまだ新しい伝統だ。だからこそ、『それ』が生まれるのには、なんらかの無視しがたい理由があったものと理解していますし、これを守ろうという意思を僕も持っています」


「では、なぜ、そのような浮ついた理由で、あなたは動こうとしているのですか」


「伝統を重んじればこそ、祖父の代のように、全身全霊で戦わなければならないと僕は考えています。けれど、それには、『王家に生まれた』というだけでは弱い。少なくとも、『それ』は僕に情熱を与えてはくれなかった」


「……」


「僕はようやく、己が情熱を傾けられるものを見つけました。その結果として、ベルトランから見ても、王位継承権争いに熱心になったように見えるほど、意欲的に活動していた。今の僕ならば、あのリシャールを打ち破るのではないかと、そういう可能性を、少しは見ませんでしたか?」


 ベルトランは口を引き結ぶ。


 その沈黙が答えだと言わんばかりに、オーギュストはうなずき、


「動機はどうあれ、僕は真剣です」


「……ならば、なぜ、たやすく、その真剣に行っている継承権争いから、思いつきのように降りるとおっしゃったのですか」


「恥ずかしながら、本当に思いつきです」


「なん……」


「彼女の望むものを手に入れるためであれば、玉座も、あなたにどう思われるかも、どうでもよかった。……ベルトランの言う通り、僕はたしかに、狂わされています」


「であれば、そのような毒婦とは即刻縁を切るべきです」


「ベルトラン、あなたも、アンジェリーナが大きな土地を持つ大貴族の令嬢であり、彼女の両親が彼女を溺愛しており、その力が無視できぬほど絶大であることは、当然、理解しているものと思います」


「もちろんです。それでも、私は、あなたと彼女を引き剥がさなければならない。彼女を側においておくことは、あなたのためにならないと、今の会話をもってより強く確信しております。あなたがこのまま王になったならば、女のために王国を傾かせる。ここの領主になったならば、領地をかたむかせる。そんな者を頭に据えては民が苦しむばかりだ。そうはさせられない」


「では、どうしたいのですか?」


「は? ……いや、その……」


「どういった者に王になってほしいのでしょう?」


「それは……民の声を聞き、希望を受け、国を安んじる王に……」


「あなたは『王』というのは『機構であるべきだ』という考えなのですね。意思なき機構。民の願望を実現するためのもの。外から乱されぬ者」


「……そう、かもしれませぬ」


「その者は信念を持っているのですか?」


「……」


「あなたはアンジェリーナの影響で意見を翻した僕を、『一貫性も計画性も信念もない』と述べた。けれど僕は一貫してアンジェリーナの利益になるように行動し、そのために計画し、揺るぎない信念を持っています。それが、あなたの望んだ『信念』ではない、というだけで」


「……」


「あなたの描く王は、あなたの描いたものにしかすぎません。それとも、時代をいくら遡っても、あるいは時代をいくら降っても、すべての者に『正しい』と言わせることができる『王』の姿を、あなたは描けているのですか?」


「それは……」


「失礼。少々、言い方がきつくなってしまいました」


 オーギュストは場を和らげるように肩をすくめて笑う。


 ……いつの間にか。

 部屋を満たす空気の主が、ベルトランから、オーギュストに移っていた。


「ベルトラン、あなたは胸に秘めていた僕への苦言を、『いい機会だからついでに』と思って吐露したのでしょう」


「……そう、ですな」


「けれどね、その件について、『ついで』で済ませるのは不可能です。僕は絶対に引き下がりません。もしもアンジェリーナとの関係について僕に苦言を呈し、この縁を切ろうと望むならば、僕と同等以上の情熱を持って計画し、僕とぶつけるに足る信念を確保してください」


「……そのようですな」


 ベルトランは長く息をついて、椅子の背もたれに深く体をあずけた。


 オーギュストは優しく微笑み掛けて、


「話が逸れましたね」


「……ああ、はい。……本当に、そのようで。失礼をいたしました」


「『仮面』についてです。僕はそれをただ見せてほしい。ただし、領主にしかそれを見ることも、それの来歴を知ることもできないならば、王位継承権を捨て、領主になるのも辞さない覚悟があります。これは、僕の信念に基づく意見です」


「……」


「軽い調子を装って言いましたが、軽い気持ちではありません。……なんと言いますか、軽くそれに殉じることができるほどの信念なのだと示したかっただけでした。たしかに軽率で不敬な態度だったと思います。これについて、深く謝罪いたします」


「…………いえ。なるほど、そうおっしゃられると、私の方も、覚えがあります。若い時分などは、そういうこともあるでしょう」


「言葉を尽くしたおかげで、わだかまりも解けたようで何よりです」


「だとしても、私はやはり、殿下と━━ミス・アンジェリーナとの婚約には反対です。リシャール殿下が婚約を申し込んでいる件についても、反対です」


「ええ。それがきっとあなたの信念に基づく決定なのでしょう。あなたが僕の信念を尊重してくれるのであれば、こちらもあなたの信念を尊重し、話し合いの場を設けましょう。……絶対に『場』が必要なほど紛糾しますから」


「そのようで」


 ベルトランは笑い、


「……ともあれ、あなたが王位継承権争いを降りたところで、それをお認めになるのは陛下です。今すぐここの領主として据えるわけにもいかないし、よって仮面をお見せするわけにも、その来歴について語るわけにもいかない」


「承知いたしました。夜分遅くにお時間いただき、ありがとうございます」


「いえ。こちらも、感情が昂り、不敬な振る舞いをいたしました。オーギュスト殿下、そしてミス・アンジェリーナに深くお詫びいたします。では」


 と、ベルトランは言って、席を立つ。


 そして背後にあった書棚から一冊の紐で綴じられた本を抜き取り、執務机の上に乗せて……


 部屋の主であるにもかかわらず、来客であるオーギュストとアンジェリーナを置いて、一礼し、部屋を出た。


 ……あきらかに不自然すぎる。


 オーギュストとアンジェリーナは顔を見合わせたあと、同時に視線を執務机の上へやった。


 そこには━━


『民間伝承集』という本……資料集が、無防備に置かれていた。

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