第32話 十四歳の王子
兄は━━
リシャールは、最初から『完成』していた。
才覚や機知ももちろんあるのだろうけれど、それ以上に、風格というのか、熟練の妙というのか、そういったものをあらかじめ……少なくともオーギュストからすれば『リシャール』というものを観測したその瞬間から身につけていたのだ。
それに『追いつけ』と言われ教育を施されるのが、いかに苛烈な仕打ちだったかは言うまでもない。
オーギュストには紛れもない才覚があった。
けれど、比べられる相手が悪かった。
そういった中で身につけたのが、オーギュスト特有の柔らかさであり、穏やかさだ。
つまり、『競争意識を捨てることによる、敗北の軽量化』。
オーギュストは柔らかく穏やかで人当たりがよい。
どれほど兄と比べられても腐ることなく努力できたし、色々言ってくる周囲に、幼いころから
それは最初からあきらめていたからだ。
兄に及ばないという事実を突きつけられても、『そもそも、及ぼうなどとは思っていない』と自分を守ることで、一つ一つの敗北をどうでもいいものにしてきた。
だから。
今、兄の言うように、オーギュストが柔らかさや余裕を失っているならば。
それは、初めての『負けられない勝負』を前に、緊張し、不安を覚え、焦り、相手の一挙手一投足がすべて自分を追い落とすためのものなんじゃないかと疑心暗鬼に
「……同じ時間を、なんども、繰り返している」
兄がなぜ、そんな告白をしたのかは、考えてもわからない。
一晩中、夜の会話が頭の中を巡っていて、寝付くことができなかった。
悩み抜いて、しかし答えを得ずにどうやらすでに朝になってしまったらしい。
この『水の都』を治めるのは、オーギュストにとって、おじや、おばだ。
だから他の領地よりは気楽に過ごせるし、他人の家よりはよく眠れるだろう━━というように思っていたのだが、どうにもそれは、リシャールの来訪によってすっかりご破算となってしまった。
ベッドの中で横たわったまま、ずっと天井をにらみつけて考えこんでいる。
普段の自分であれば、もっと冷静に『休む』という選択をとれただろう。
けれど、ダメだった。
いっとき感じていた全能感はすっかり消え失せて、あとには『今まで一度も、兄に勝てたことがない』という統計的事実のみが残った。
なにが『すべて僕が差配する通りに運べば、勝てるという感覚がある』だ。
冷静になってしまえば、兄と自分との差はこうも歴然としていて、あまりに遠い目標を前に不安で眠ることさえできない自分がいる。
「……取り戻せないものを賭けた勝負というのは、こんなにも……」
……この『水の都』での演説は、明後日、行われる。
リシャールの申し出を承諾はしていないが、拒絶もしていないので、きっと、同日に演説を行うことで話は進むのだろう。
承諾も拒絶も、したくなかった。
なにかを決断する重圧に耐えかねている。
逃げ出すわけにもいかず、覚悟を決めるにも時間が足りず、対策などいくら打ち立てても不安が消えるわけではない。
時が止まって、今日という日が永遠に終わらないことを祈るしか、できない。
……結局、少しも眠れなかった。
部屋に側付きの者が来て、朝の支度をさせられる。
朝食の席ではいつものように微笑を浮かべないといけないと思うのだけれど、今まで自然と浮かべることのできた笑みは、もう、浮かべ方がわからない。
食堂に入る。
そこには『水の都』を治める領主夫妻と、その息子である少年。
そして、リシャールと、アンジェリーナがいる。
オーギュストは穏やかさを心がけて朝のあいさつをする。
だが……
「どうした? 寝不足か?」
アンジェリーナは一瞬で気づいてしまったようだった。
眼帯に隠れていない方の目が、探るようにオーギュストをのぞきこむ。
リシャールは……
残念そうで、寂しそうで、それから、悔いるような顔をして、視線を逸らした。
逸らした先には、領主夫妻がいる。
リシャールはそのまま、切り出す。
「……すまないが、事前にしていたお願いを取り下げても?」
領主夫妻が不思議そうな顔をする。
リシャールが補足のために口を開く。
「オーギュストと同日に演説をしたい、というやつだ。どうにも、弟に負担をかけすぎたらしい。さすがに見ていて気の毒だ。……少しはしゃいでしまったのかもしれない。申し訳ないな、日程の調整をしていただいたのに」
それは、間違いなく、自分の心身を気遣う優しさから出た発言だと、オーギュストにもわかった。
無理をするな。
やりすぎた。
リシャールは己の行動が過剰だったのを反省し、改めようとしている。
(いいことじゃ、ないか)
オーギュストは席に着くことさえ忘れて立ち尽くしたまま、思う。
実際に、とてもいいことだと感じた。
リシャールが提案をした瞬間に、
心身が軽くなり、視界が明るくなり、これまでいっこうに訪れなかった眠気が首の後ろから湧き出てくるような心地さえあった。
競争しなくていい。
そういう道筋を示されるだけで、オーギュストはたしかに安心したのだ。
そもそも、継承権争いは、年上が圧倒的に有利だ。
なによりリシャールは歴史上のすべての王族と比較しても上位に位置する才覚の持ち主とされている。自分もそこそこなんでもこなせるけれど、とてもじゃないが、王家の歴史と比較して優れているような存在に及ぶはずもない。
あまつさえ、現状はリシャール側が条件を調整し、なるべく対等を心がけることでどうにか勝負になりそう、というような状態だ。
最初から手心が加えられている。これで勝ったところで、その勝利は自分で得た勝利とは言えないのではないか?
(うん、いいことだ。僕は、そこそこの王子でいい。言われる程度のことなら、なんだってこなせる才覚はある。ただ、兄には及ばないというだけだ)
あきらめてもいい理由が、いくらでも思いついた。
先ほどまで忘れていた笑顔の浮かべ方を、思い出すことができそうだった。
大きく息を吐いて、『すみませんね、気を遣わせてしまって』と兄に謝罪し、それで終わりだ。
でも。
安堵の息をつくのを、さっきから、必死に堪えている。
緊張がほぐれて笑顔が浮かびそうになるのを、奥歯を噛み締めてとどめている。
『ありがとう。気を遣わせてすみません』。
……そんなセリフは、死んだって吐きたくないと、腹の底でなにかが叫ぶのだ。
そのなにかは、まぎれもなく自分自身だった。
けれど、今までその存在さえ知らなかった、激しい自分だ。
こんな自分は、どこに眠っていたのだろう?
そして、なぜ、この激しい自分は、今、目覚めて、必死の叫びをあげているのだろう?
自分は、なぜ。
言葉を発したリシャールでもなく、演説日程の調整をできる立場のおじ夫婦でもなく━━
アンジェリーナを、見ているのだろう。
(ああ、そうか。僕にも、そんな感情があったのか)
いつもの笑顔は思い出せなかった。
代わりに口元に浮かんだ笑顔は、攻撃的だった。
柔らかさはもう少し胸の奥にしまっておく。
向こう見ずな激しさに身を委ねて、オーギュストは、口を開いた。
「気遣いは無用ですよ、兄さん」
内心ではとてもとても後悔している。
絶対に負けを認めた方がいい。
でも、アンジェリーナが見ているから、オーギュストは不敵に笑って、言葉を続ける。
「勝負は受けます。互いに引き下がる必要はない」
リシャールが気遣わしげにこちらを見た。
「大丈夫、なのか?」
おそらく、内心を見抜かれている。
恐怖も焦りも緊張も不安も、まだまだまったく消えていなくて、今、口から出ている言葉も、顔に浮かんでいる笑みも、すべては空虚な強がりでしかないのだというのは伝わっているのだろう。
だから、大丈夫だと強がっても、まだ、リシャールを『敵』に戻すことはできない。
気遣われる弟では、ダメだ。
きちんと対立する政敵なのだと思ってもらえなければ、それは、あんまりにも━━
「大丈夫ではないかもしれませんが、引き下がることはしませんよ」
「なぜだ?」
「━━格好悪いから」
「は?」
「ここで引き下がると、格好がつかないんですよ。だからどうか、手心を加えるのはやめてください。政敵である兄に気遣われる弟なんて、情けないにもほどがある。そんなことをされた日には、どういう顔で明日から彼女と過ごせばいいかわからなくなってしまいます」
全員が、きょとんとしていた。
最初に自失状態から立ち直ったのは、リシャールだった。
「いや、なんだ。……そうか。そういう理由は、その……アリなのか」
「僕にとっては深刻な問題です。だからね兄さん、僕を気遣うなら、むしろ、僕ときちんと敵対してください」
「……俺はな、お前たち親しい連中には、なるべく無理をさせたくないんだ。お前たちが不幸になるような『終わり』は望んでいない。もし、それ以外に終わりようがないなら、いくらだって人生を繰り返してもいいとさえ、思っている」
「……」
「でも、そうか。そうかー……。そうか……うん、そうか……十秒、くれ。色々と整理する」
リシャールは黄金の瞳を閉じて、長く長く、息を吐いた。
きっかり十秒ですっかり息を吐ききり、そうしてたっぷり吸い込んで、
「お前のプライドを
「あまり『プライド』とか『そんな理由』とか言わないでください。僕にも
「すまなかった。……誓おう。お前をか弱い弟として扱うことは、二度としない。……いやしかし、衝撃が大きい……そうか、オーギュスト、お前、十四歳だったな……今までが大人すぎてちょっと失念していた。思わぬところで弟が年下だと思い知らされて、兄さんはちょっとショックがでかい」
「明日の演説までには持ち直してくださいよ。そうでないと叩き潰しがいがないので」
「そういう強い言葉は、負けた時に刃となって己に降りかかるぞ?」
「負けなければいいだけの話です」
「…………
リシャールが唐突に切り出すもので、おじも、おばも、そろって首をかしげた。
リシャールは極めて冷静に、
「食事の席で
そう言うとリシャールは目を伏せてうつむき、肩を震わせる。
それからだんだんと震えを大きくし、最後には、大きな口を開けて、食堂によく響く声で大笑いをした。
ひとしきり笑い終えて、涙をぬぐって、リシャールはしみじみとつぶやく。
「━━楽しいなあ、人生は。こんなに楽しいなら、いくらでも繰り返したいよ」
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