第31話 突然の来訪
オーギュストのいとこがいるという領地は、水量の豊富な川が複数流れ込む大都市だった。
水の都と言われるこの土地には、この暑い時期には観光客も多いらしい。
到着が夜半過ぎだったため、その街の全景と観光客の多さを見ることはかなわなかったが、ここには三日ほど
この街の政治的立場は、『完全中立』だ。
位置的にも王国の中心近くにあり、国内のあらゆる川の本流・支流が流れ込む場所にある街は、水にかんする多くの権限を持っている。
それゆえに『王位継承権争い』という伝統が生まれるきっかけとなったオーギュストの祖父……の、親……つまり曽祖父である当時の国王が、この土地を『いかなる政治的派閥にも属さぬ場所』と定めたらしかった。
広さや工業技術、立地の特殊性による『大きさ』はアンジェリーナの実家が国内
王国本土における影響力の高さ、それにより法や伝統で幾重にも保護された『自治権』などの『重さ』においては、この水の都が国内第一と言える。
赤茶けたレンガの
すでにこの街にいる、いとこやその親(つまり、おじやおば)とのあいさつは済ませてあるので、こんな時間の来訪者はアンジェリーナぐらいしか思い浮かばない。
だからオーギュストは楽な服装のままではあったが、気軽に「開いていますよ」と招き入れた。
……かつてのアンジェリーナであれば、こんな楽なシャツにズボンという姿を見せたら金切声で『王子たる者が淑女を出迎えるのにその格好はいけませんわ』などと
今のアンジェリーナはこういう気安い感じをむしろ好んでいるようなので、オーギュストも変に肩肘張ることをやめたのだ。
さて、ドアが開かれ、来訪者が姿を見せる。
その瞬間、オーギュストはぎょっとして、思わず椅子から腰を浮かせた。
「兄さん……⁉︎」
現れたのは、リシャールだった。
艶めく真っ黒な長髪に、たなびくマント。
この暑い夜にきちんとシャツやズボンをまとい、手袋までした完全装備だというのに、汗の一筋さえ流れていないのは、さすがと言う他にないだろう。
リシャールはいたずらが成功した子供のように口の
「愛すべき弟よ。久しぶりだな」
「久しぶり……なのかは、わかりませんね。つい先日、体育祭でお目にかかりましたし。以前までは、年に一度ぐらいしか会わない間柄でしたから」
オーギュストは浮かせかけた腰を下ろし、柔らかく微笑んでから、手で室内を示した。
……事前に把握していたリシャール側の日程によれば、彼がこの土地を訪れるのは、もう少しあとだったはずだ。
少なくとも、二人が長期休暇の中盤にあたるこの時期に顔を合わせることにはなっていなかった。
ということは、向こうが合わせて来たのだろう。
理由はわからないが━━
同じ目的を
だからオーギュストは余裕のある態度と笑みを取り戻し、兄を部屋に招き入れた。
「オーギュスト、緊張しているのか? まあ、そう構えるなよ」
……その『持ち直し』はどうにも見抜かれているようではあるけれど。
それでも、ライバルの前で格好悪い姿をさらし続けるより、ずっとマシだろう。
リシャールは遠慮なくベッドに腰掛けた。
座る場所は、文机のところにある椅子を除けば、もうベッドしかないのだ。
そもそもここは客を招く部屋ではない。
正式な対談であれば、また違った場所に、ちゃんと茶会の用意をしてから集まることになる。
なにより、手紙でのやりとりもなく、いきなり一人で部屋を訪れるというのは、学生でもあるまいし、かなりありえない。
だからこれは、きっと━━
何気ない、雑談のつもりの、来訪なのだろう。
「それにしても」リシャールが思い浮かんだことをそのまま口に出している様子で声を発する。「ミス・エマは連れてきていないのか?」
「……兄さんはずいぶん、ミス・エマにご
「それもそうだな。……いや、たしかに、そうだ! 連れて来ていた
「……兄さんの興味はどうにも、僕やアンジェリーナより、ミス・エマにあるように思えますね」
「それはそうだろう。なにせ彼女は今まで、世界の中心だった。ところが今回は
「暑さにだいぶ参っている様子で」
「俺は、同じ時間をなんども繰り返しているんだ」
「はあ?」
「お前が二十歳で、王位継承権争いの決着がつく。俺はな、生まれてからそこまでの時間をなんどもなんども、繰り返しているんだよ」
思わず、兄の方を見る。
笑っている。
黄金の瞳を細め、口の端を上げて笑っている。
それはふざけているようにも見えた。
けれど、こちらを試しているようにも、見えた。
信じるのか、どうか。
……信じてどうなるのか、信じなければどうなるのか。それは、わからない。
ただ、兄からの━━争うべき好敵手からの評価を落としたくないオーギュストは、沈黙が不自然にならない程度の時間、考えて、
「そういう与太話はアンジェリーナだけで充分ですよ。僕らはそういった冗談を言い合うほどには気のおけない間柄でもない。違いますか?」
「それもそうだな」
リシャールは相変わらずニヤリと笑っていて、今の回答が正解なのか、不正解なのか、そこからなにを判断したのか、なにも判断していないのか、いっさい読み取れない。
問われるほど精神的に不利な立場に追い込まれる。
そう考えたオーギュストは、こちらから話題を振ってみることにした。
「ところで兄さん、ひょっとして今夜の来訪は奇襲のつもりですか?」
「奇襲とは! ……いや、嬉しいね。お前からの
「……茶化さないでください。いいですか、兄さん。僕はこの街に
民への演説はこれまでの街でもしてきたが、この『水の都』における演説は他の街とは少々だけ意味合いを
この時期に継承権を争う王族たちが来て演説をするというのはオーギュストの祖父の代からの伝統であり、その代から、祭りが演説に合わせて行われるようになった。
その祭りでは街を出歩くすべての者が仮面を身につけることを義務付けられており、貴族が民に混じって王族の演説を聞くことが可能となるのだ。
そしてなにより、観光名所たるこの街に来る民は、ここで見聞きした王族の様子を自分の故郷に帰って話す。
王国中から中流層〜富裕層の平民が集まり、あらゆる派閥の貴族が派閥にかかわらず平民に混じってお忍びで来る『水の都』での演説は、王国全土における勢力バランスを変えかねない影響力があるのだ。
だから、オーギュストはこう考える。
「今夜の礼を失した来訪は、近々演説を控えた僕にこうしてこっそり会うことで、重圧を与える目的があると
リシャールは、目を大きく開けてじっとオーギュストを見たあと……
数度、まばたきを繰り返し……
そして、吹き出した。
「オーギュスト! かわいいやつめ!」
「……あの、僕はかなり強い抗議をしたと思うんですけれど」
「いや、失礼。オーギュスト王子の
「……では、本来の意図はなんだというのですか?」
急に兄が対外的な態度になったので、混乱しつつも、どうにか平静を装う。
リシャールは黄金の瞳を静かに細めて
「来訪の目的は二つ。まずは、演説の順番について。これを同時……つまり、同日にしたいという申し出だ。その意味は聡明なるオーギュスト王子であればご理解いただけると思う」
「……演説は、あとにする方が有利と言われていますね」
人はどうしたってなにかを判断する時に『基準』を必要とする。
先に演説をした方に比べて……というように、王族の演説を比べるのだ。
その時に基準にされた方は、あとから演説した方がよほど
すなわち先行不利というのが、この
「兄さ……リシャール王子、あなたは、自らの有利を捨てようというのですか?」
「有利を捨てる、というのは少々認め難い言い回しだ。そもそも、我らは対等なる継承権を持つ。ゆえにこそ、すべての競争の条件は可能な限り平等であるべきとは思わんか?」
「……それは、そうかもしれませんが……」
「ああ、そうか。お前━━有利な条件ばかりが提示されるのが不安なのか」
リシャールは、なぜだろう、傷ついたような顔をしていた。
オーギュストは、なにも言えない。
図星を突かれているから。
どことなくつまらなさそうに、リシャールは息をついて、
「安心しろ。『裏』などないさ。というより、こんな面白い状況で、戦いを避けるような立ち回りをしてたまるかよ。俺たちがしているのは『なんでもあり』ではなく、互いの実力と天運を比べ、定められた
目の前にいる男のあだ名を思い出す。
『
呼称する者の宗教的立ち位置によって微妙にニュアンスは変わるものの、『未来を見通す』とされることには変わりがない。
……もし。
もし、その予言の力が、先ほどリシャールの述べたように『同じ時間をなんども繰り返しているがゆえ』であれば。
そしてもう一つ彼の言葉を信じる通り、オーギュストが本気でリシャールに対抗するのが初めてなのであれば。
きっと、その予言の力は、この政争においては、発揮されないだろう。
だが……
「……兄さんの危惧するようにはなりませんよ。僕らはあくまでも『試し合い』をする。なぜなら『なんでもありの殺し合い』は、王道ではないから」
「王道。王道か。……なあ、オーギュスト。俺はお前がアンジェリーナを理由に王道を
「……それより、来訪の理由は二つあると言いましたね。もう一つは?」
「弟と話をしたかっただけさ。人目があると、どうしたって『兄』としては振る舞えないからな」
リシャールは立ち上がり、入り口に近付いていく。
そうしてドアノブを握ると、振り返らずに、
「あの時のお前であれば、こんな来訪も柔らかく笑って受け止めてくれるものと思っていた。俺がアンジェリーナに婚約を申し込んだとして、抗議文はまあ、来るだろうが、それでも余裕を失わないものと思っていた。……俺はどうにもやりすぎたかもしれん。演説までに持ち直してくれることを願う」
艶やかな黒髪越しにそう述べて、部屋を出ていく。
オーギュストは閉じられたドアを見ていた。
澄んだ青い瞳はどことなく陰り、膝の上の拳は、思い詰めるように握り締められていた。
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