第29話 文脈
貴族には複雑怪奇な礼儀作法が複数あり、これを息でもするように十全にこなしてみせるには、幼いころからの
席を外して便所に行くだけでも三十あまりの『言い回し』が存在する
『金で
さて、魔王は人間の作法について詳しく知らぬ。
だが……アンジェリーナは、幼いころから貴族としての作法を身につけ、これをこなしてきた淑女であった。
性格は壊滅的であり、それを咎める者もなく、さらに言えば元来の性質がわがまま高飛車で、周囲の人間のことを『自分を機嫌よく過ごさせるための舞台装置』ぐらいにしか考えていなかったアンジェリーナであるが、その血は間違いなく歴史ある大貴族のものであり、その教養は生まれついての高貴なる者なのであった。
つまるところ、アンジェリーナの『貴族的な作法』は完璧であった。
「びっくりしましたよ。いや、すごい。
すでに長期休暇に入り、派閥構成員の領地巡りは始まっている。
移動中の馬車の中でオーギュストはそのようにアンジェリーナを賞賛した。
よほど衝撃的だったらしく、なんどもなんども、アンジェリーナを褒め称えている。
ただし、
「あとは眼帯と包帯さえ外してくれれば言うことはないんですがね……」
アンジェリーナは貴族らしい言葉遣いと完璧な作法を発揮したけれど、右目の眼帯と左腕の包帯だけはかたくなに外さなかった。
おかげで怪我をしたのかとパーティーでは全員に聞かれ、そのたびに当たり障りのない言い回しで『気にしないでください』と述べるのが大変だった。
「学生なので、ということでなんとなく察させることはできましたが、やはり包帯と眼帯は目立ちますよね……特にその、眼帯は、顔ですし……」
「とはいえ」アンジェリーナは腕を組み脚を組み、ふんぞりかえるように馬車のボックスシートに背中をあずけて、いつもの調子で言う。「我が
「ええ、まあ、はい。そういう話にしているのはわかっているんですけどね」
「我は世界の平和を気遣う者ゆえにな……」
「……ともかく、外せないというのはわかりました。君が言葉遣いを
「しかし、アンジェリーナはなにをモチベーションに、これほど難解な貴族作法や貴族の言葉遣いを学んでいたのか、それがわからんな」
「はい?」
アンジェリーナがいきなり『アンジェリーナのことわかんない』と言い出したので、オーギュストは困惑した顔になった。
アンジェリーナは「いや」と悩ましげにこぼし、
「思えば、アンジェリーナには夢や目標というものがなく、出される課題をそのままこなして褒められるのが嬉しい、というだけの少女であったなと思ったのだ」
「えーっと……その発言を僕はどういう立ち位置で聞いたらいいんですか?」
「独り言をうっかり耳にしてしまったかのような立ち位置でかまわん」
「それはだいぶ気まずいですね……」
「アンジェリーナの立場からアンジェリーナを観察してみれば、たしかに高飛車だし、わがままではあったが、世間で言われるほど権力欲はなかったように思う。……まあ、素で自分のことをお姫様だと思っていたので、むしろ権力欲があるより悪いという感じでもあるのだが……」
「すいません、僕はひょっとして感想を求められていますか?」
「感想があるなら述べるのはかまわんが、なにに対する感想だ?」
「いや、えー……」
「
「それを、この移動中の馬車という二人きりの密室の中で、真正面にいる君に言えと?」
「バスティアンやらガブリエルがいればよかったのだがな……」
二人はここにいない。
なぜかと言えば、実家に帰っているからだ。
もちろん単なる帰省ではなく、オーギュスト派となったので、オーギュストを招いてパーティーを催すように家の者へ言いに行っているのだ。
……長期休暇のあいさつ回りは休暇後半が本番となる。
学生であるうち、王族は学園で生徒たちの心をつかみ、学内派閥の拡大をはかるのだが……
そうして学内派閥で自分の主を定めた生徒たちは、休暇前には手紙で、そして休暇に入ると実際に家に戻って親に『自分の学内派閥の主を迎えてパーティーを開くように』と進言をすることになる。
早くに説得できた家ほど『子の言う通りに派閥替えをする意思があった』ということで、パーティーに出向いただけで派閥に属するようになる確率が高い。
しかしなかなか説得に応じず休暇期間後半までもつれこむような家はすでに敵対派閥に属している可能性が高く、それでもパーティーを開いて招いたならば、それは、『招かれた王子を見てから派閥を鞍替えするか決める』という意思表示だ。
つまりあいさつ回りの本番は後半に招かれるパーティーになり、ここでよい感触を得られれば、ただ『派閥を構成する貴族が増えた』というだけではなく、『相手派閥から構成員を奪った』ということになり、継承権争いにおいて効果的になる。
「まあ、連中は忙しい。ガブリエルなどは家の者を説得しパーティーに同席したらすぐさま学園に戻り、きたる二学期の文化祭とオーギュストの生徒会選挙の準備をせねばならん。バスティアンは……家の方がほぼ完全にリシャール派だというのに、それでも説得をかって出てくれたのだ。呼びつけるわけにもいくまいよ」
「いえその、呼びつけようという話ではなくってですね? ……君についての
「……別になにを言われようが、いきなり斬りかかることはないが?」
「必要なのは命を失う覚悟ではないです」
「……?」
「君に相対するたび、僕はこれまでの人生でどれだけ他者に『わかってほしい』を押し付けていたのか思い知らされますね。言語化の努力というものを放棄し続けてきた自分を恨めしく思います」
「なんだかわからぬが、努力が足りぬと思ったのであれば、その瞬間こそが努力を始める時よ。不出来でもいい。我は
「いやーそのー…………僕はひょっとして、なにか君の機嫌を損ねましたか? それほど貴族らしい言葉遣いと振る舞いが嫌だった?」
「先ほどからなにを言っているのだ? かつての我の様子について抱いた感想があるのだったら述べてみよ、という話をしているだけではないか。なぜ話があちらこちらに行く? 機嫌を損ねる? どういうことだ?」
「あの、アンジェリーナ……はっきり言いますね」
「うむ……?」
「君に、君に対して抱いていた感想を面と向かって述べるのは、かなり、気まずいし、恥ずかしいです」
「大丈夫だ」
「いえ、僕が大丈夫ではないんです」
「なぜ?」
「ええ……なぜ? なぜ、かあ……そういうものだから、というぐらいが今の僕にできる精一杯の言語化ですね……あの、普通、嫌では? 相手に思っていることを、その相手に直接言うのは」
「しかし、当人に言わなければ誰に言うのだ」
「誰にも言わずに死んでいきますかね……」
「なんと⁉︎ それほど重大な秘密だったか……」
「秘密……秘密かなあ……?」
「わからん……なにか……なにかが足らぬ。共通で認識しているだろうと互いに思っている『なにか』を、我らは共通認識しておらんようだ」
人は文脈で会話をする動物だが、一見会話が成立している相手でさえ、同じ文脈で同じ意図の会話をしているとは限らない。
貴族界隈は『察させる文化』なので往々にしてそういうことがよく起こる━━が、アンジェリーナとオーギュストのあいだにある『もやもやした感じ』は貴族とはさほど関係がなさそうだな、というのは互いになんとなくわかるところだった。
会話が停滞しているあいだも、馬車は次なる貴族への領地へと進んでいく。
炎の季節の長期休暇はまだ始まったばかりだった。
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