生命に対する責任

 現代社会には、ところどころで生命に関する哲学の欠如が見受けられると筆者は考えている。例えば、民主主義は当然今生まれていない赤子の選挙権はないのであって、今ある人間の過半数が自分ではなく将来生まれてくる子どもたちについて考え投票すること無しに、今ここにいない赤子らの将来は開けてこない。また、科学が命を扱っている範囲はおおむねヒト単独の生態と各臓器と脳、筋肉その他の健康であって、その昔言われていたような血統や生命のバトンのような観点もあまり出てこない。更には、子供を社会で育てるという点もなくなりつつある。

 ここから現在生じているのが、生命に対する責任、もっといえば生命に対する過剰な責任である。「認知症鉄道事故裁判」という2007年12月に認知症の高齢男性が電車にはねられて亡くなり、遺族が鉄道会社から高額な損害賠償を請求された訴訟があった。結局この裁判は最高裁までもつれ込み、一応、遺族には責任がないとして決着を見たと言われている。しかし、一審で約720万円、二審で約360万円の損害賠償を請求された遺族の気持ちは一体どれほど辛かったか察するに余りある。

 例えば野生の猪が電車にはねられ、鉄道会社が損害を負ったとしても裁判になることはない。なぜなら保護監督者がいないからである。一方、認知症の老人や子供が電車にはねられたとき、鉄道会社はこの損害を保護者監督者から回収しようとしたという社会の性向を発見することができる。

 責任無能力者のおこした損害を保護監督者が引き受けるというこの現在の体制は、命が生まれ、動物、すなわち責任無能力者として育ち、続いて人間となり、老いては動物へと返り、そして死に至るという一連の生命活動の実態に対して、生まれてから死ぬまで生命を人間の力によってコントロールできるという前提に考えられているように思われる。

 このことは社会をコントロールする上で重要な考え方であっただろうが、そろそろ非常にまずい段階に達してしまっているのではないだろうか。そもそも若い女が望まぬ赤子を孕んでしまい、トイレに捨てたという事象に対して、そこに突如として出現した赤子を単に国民とみなし死体遺棄罪として逮捕してしまうということは、私達の社会が自然の内にある生命をコントロールしうるという驕りにも見える。その昔は「七歳までは神のうち」と言ったそうだが、こちらの方が現実の理解に近いのではないだろうか。

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