市場原理主義と少子化
市場原理主義は必要なものを必要なところに届ける。そしてそれは時間が経つに連れて、より安価により早く供給される。実際、現実はその通りになっており、ダイソーなどの100円ショップやスーパー、コンビニの発達、更にはインターネットショップが台頭するにあたって、私達はかなりの商品を自由に、素早く、安価に手にいれられるようになっている。
しかし、この市場原理主義を有する資本主義社会において、家庭を持ちたいという人々がより早くより安価に家庭を持てるようにならないのは一体どういう訳であろうか。
例えば、鶏のブロイラー飼育では極めて安価に大量の鶏を飼育し市場に供給している。現代の文明にはそれだけの力があるのだ。しかしながら、こと人間の生命に関する場合、それと全く異なることが起きている。
もちろんこのことは先に述べた家庭を合理的に成立させる男女給与の部分が杭のように突き刺さっているのであるが、現代のような市場主義、経済的自由主義といったものが鶏のように大量の人間を産みだすことができないことはいかにも不思議に思われる。
世の中のありとあらゆる商品はそれが世の中の競争に晒されるという中で、不断の原価低減活動とサービス品質の向上が必要である。しかし、家庭を構え、子供を育てるためのコストは下がっているのだろうか。
実際には、子供の教育費は右肩あがりに増大している。総務省家計調査によれば、子供一人あたりの一年にかかる教育費は1970年には2.4万円だったものが2015年には37.1万円となっており、今なお増加中である。これに子供を育てるための飲食費等を加えなければならず、更には教育期間の増加、すなわち大学にほとんどすべての子供が通うという大学全入時代が台頭し、更に子供の教育にかかる費用は増加している。大学まで子供を送り出す場合、すべて公立であっても約1,000万円は必要と言われており、これを20年間で割ったとして1年あたり50万円は子供の養育費として捻出しなければならない。
ともかくここで言えることは、世の中のありとあらゆるものがますます安価で、早く手に入り、便利になっていくのだが、家庭の維持と子育ては年々困難になっているということだ。これは明らかにおかしい。市場が物事を最適化するというなら、これは明らかにおかしいのである。このことを考える時、経済学者、故宇沢先生の提唱された「社会的共通資本」を思いだす。
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