エピソード16 純度100%の君を
「君でないとダメなの。だからじっとして」
西暦20□□年。俺・山口哲夫は、愛する彼女に右の太ももを刺された。
原因は不明。
ヒストリーっ気がある風には思えない普段の生活態度だが、行動と現状が激しく俺の抱いていた印象を唾棄させようとする。
大学2年の初夏に、大講義室で隣の席になったのをきっかけに、俺たちは少しずつ、本当に少しずつ親しくなっていった。
男女としてではなく、学友として交遊を重ねた俺たちは気づけば四回生。もうすぐ操業どころか、就活などでしばらく会う事はないだろうと思っていた頃合いに、彼女の方から告白してきたのだ。
彼女・三浦しぐれは美人だ。それは恋人関係になったひいき目で言ってるのではなく、すれ違いざまに聞こえる男子学生たちの品評に基づく社会的データだ。
そうやってゆっくりと友情を育み、これからは愛情も、などと悠長に、いや、惚気として将来を楽観視していた矢先、何の言われもなく刃先が俺へと向かってきたのだ。
これは何事か。もちろん、俺は誓って浮気なんかしていない。くどいようだが、信頼しきった関係の上で、どうしてわざわざ危険を冒して、他の女性に目を向けるだろうか。バカバカしい行為は、入学当初でしか許されない。
今や俺は就活生として、四六時中、清廉潔白にスーツを着こなす男だと、どの企業説明会でも恥ずかしげなく宣言できる。
それなのに、しぐれさんの自宅へ行くや否や、ジーパンはダメージを帯び、更に俺の出血によって、黒ずんでいる始末。
「落ち着けって!?」
このような声かけは正直、虚しい。
なぜって、彼女は意外なことに、思いの外、冷静に見えるからだ。
「どうしてこんなことを」
「そう、哲夫くんはいつだって素朴な疑問を話してくれたよね。結構、私、哲夫くんの疑問に思った着眼点、好きだったよ」
過去形が俺の寿命を縮めるように思えた。
「答えになってない」
「答えって、考えると難しいけど、考えなければ案外、簡単だったりするよね。例えば『時間』。時間って何?ね?答えられないでしょ?でも、時間通りに行動することも、時間を理解することもできる。人って不思議だよね。分かってても言葉にできない。どんなに努力しても、もともと動物だったことから逃れられない。それが神からの罰なんじゃないかな。だってさ、禁断の果実って人間に知恵を授けた果実の事だもん。つまり、もともとは動物だったのに、バグったせいで、システム通りの言動ができないの。言葉が不自由なんじゃなくて、言葉を正常にプログラムできないのが人間なんじゃないかな」
「なかなか興味深いけど、それがどうしてこんな事に」
「それは、動物にも、人間にも神が与えた初期設定、つまり愛の力だよ」
「愛だって!?どうして刺されなくちゃならないんだよ!」
「危害を加えられれば、恋人にだって牙をむくなんて、やっぱり動物だね。でも男らしくって好き」
彼女に翻弄されているのは分かる。これも後で正当防衛に見せかける煽り作戦かもしれないが、それでも、興奮は止められない。このアドレナリンなどによる興奮が止まった時は、手当されたか、俺が死んだかの二つに一つだからだ。
(動かないで)
耳元で甘く囁かれ、もしかしてサディストなのではとほんの少し好意的に考え直した瞬間、彼女は破れたジーンズの隙間に舌をのばして、ぺろりと血を舐めとった!
「痛っ」
「慣れるから、らいひょーふ」
俺たちを背後から見る者がいれば、きっと性行為だと思うに違いないが、実際はアブノーマルもいいところで、俺は奇妙な感覚と痛みとを耐えつつ、下手に刺激しないようにじっとしていた。
「つい数十年前まで、医者の仕事は
傷はそれほど深くないので、どくどくと血が吹き出ている訳ではない。それ故に彼女はこうしていつも通り、話しつつ、少し血が滴りだすと、さも平然に舐めるのだった。
いや、平然なのは俺の方か?異常なのは俺なんだろうか?
だって、普通、彼女を諭すか、殴るか、この場から逃げ去るのいずれかだろう。それがふむふむと頷きながら、ヴァンパイアでもない彼女が血を舐めるのを許している。
異常だ。俺は異常なんだ。
「あ、ショック状態になっちゃったね。脳に循環する血の配合が少し減ったのかな。それとも貧血じゃなくて、絶頂とか?」
当然エクスタシーは感じていないが、一気に口を傷口にくっつけてきた瞬間は、確かに気絶しかけた。キスなんて甘いものじゃない。
それは捕食行為であった。
「私ね、心から君を愛してるの。イエスがワインを自分の血だと思えって言ったでしょ。それ以上の隣人愛、君への愛を証明したいの。だから、これからもいっぱい、血を作ってね」
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