エピソード17 危機を前にして人は

 彼女がドアを叩いている。

 もう、うんざりだ。誰かを好きになるなんて青二才のすること。

 大人は誰も愛してはいない。だからこそ、古今東西の宗教や哲学は隣人愛を説くのだ。


「今日もいっぱいお酒作ってきたの。あ、良かったら伸也くんにも作るよ!とびっきり美味しいやつ!」


 そう、愛情なんて脳内でのホルモン反応に過ぎない。作用している物質が違うだけで、アルコールによって感じる幸福も、精神と肉体のいずれにしても愛情によって感じる幸福もまた、空虚なモノだ。


 いつだったか、エレベーターで一緒になって、適当に世間話でもしたつもりが、妙に、本当に妙に好かれてしまった。同じマンションの住人とのトラブルという字面を時折見かけるが、こういった事例もあるのだなと、最初は少し感心していたが、すぐにそれが若さゆえの楽観視であることに気づかされた。

 彼女は何らかの夜のバイトをしているらしく、午前中から夕方にかけて、こうして暇さえあれば、外から話しかける。


 これが夜なら、近所迷惑として他の誰かが管理会社に言っているのだろうが、いかんせん、平日のその時間帯ともなると、リモート授業を受けている大学三回生くらいしか、周りには居ない訳である。天は彼女に味方していると言わんばかりの御近所関係だが、だんまりを決め込めば、面倒を避けてどうにか諦めるだろうと、高をくくっていたのだが、どうにもまだやめそうにない。恋の執念、かくの如し。


 きっと、少し性格に難があったからといって、彼女のような容姿を持った年頃の女性に、男関係で失敗したことなんて無いのだろう。

 だから無視されていることに意地になって、バカみたいにドア越しに離し続けているんだ。結局、本当に愛しているのは自分自身。


「また来るね………愛してる、ふふっ」


 乙女でいられるのもいつまでだろうか。女性に言ってはならない事なのは重々承知しているものの、こう思わずにいられるはずがない。

 それは彼女がもう数年で穢れるというのではない。むしろ、成熟すると僕は生意気ながら表現したい。彼女が未熟であると仮定しなければ、あのように押し立てる好意にこちらが気負けしてしまうからだ。


「やっぱり居たんだ」


 気晴らしにジュースでも買いに行こうかと思って扉を開けると、ドアノブの他、新たに別の金属がひんやりと肌に触れるのを瞬時に感じ取った。


 やってしまった。

 そんな自身の軽率さへと反省は、その金属のせいですぐさま怒りへと変化していった。


 俺の右手には手錠がつけられていたのだ。


 こうなっては、急いで鍵を閉めることも出来ない。敵ながらあっぱれ。

 勿論、もう片方は彼女の少し細い手につけられている。


「外せよ」


「えへへ」


 えへへ。少し顔が良ければすぐこれだ。だが刑法に身分なし。いかなる人間であろうとも拘禁して許される訳がない。


 というのはあくまでも法学論。

 現実はこのようにいつだって理不尽だ。


「目的は何だよ」


「自殺です!」


 は?笑ってる……

 てっきり、付き合ってくださいとか言われるかと思っていたのに。


「自殺幇助で捕まりたくないから、一応阻止はするが、どうして僕が手錠される事になるんだよ」


「いい質問です。マジで病んだ時にお客様のオジサンが本読んだらいいよって教えてくれてね。でも私バカだから本なんか読んだことなくて。そしたら、伸也くんがだいおさむの小説をカバンに入れてるの見ちゃってさ」


「だざい、な。あと他人のカバンを覗くなよ」


「えへへ、ごめんね。それでね、読んでみたら、めっちゃ心中してるの!それで思ったんだ、今まで誰かを愛したことはあっても、一緒に死のうと思えた人いたかなって」


 案外、文学少女な感性を持っているようだが。

「それでどうして僕なんだよ」


「伸也くんには好きな人もいないのが目を見て分かったから」


「だまれ」


「人を好きになったこともないでしょ」


「余計なお世話だ」


 まさか。


「でも大丈夫。私が教えてあげるから」


 この手枷は元から僕につけられていたのか?


 それを半ば強引に可視化・具現化させたのが彼女であり、それによって、解く手立てが生じた。不自由を自覚するのが自由への一歩であるように。


「君はもう独りじゃないよ。今までうわべでそう言った人はいたかもだけど、私の本気さは全然別物って分かるよね」



“だから一緒に、ね?”

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