エピソード3 残業代には彼の血肉を

「お先に失礼します」

 笑みもなくお疲れ様という社員を置いて、アルバイトである私は足早に駅へと向かう。やりがいなどというものを漠然にすら感じていない私が、終電を逃すものならば、もはや次からは無断欠勤しかねない。


 間に合う目途がある程度たったので、私はいつものように、コンビニでぶどうジュースを買う。

 自分へのご褒美と言えば、なんだかみすぼらしいけど、別な意図もあるので、恥ずかしくは思わない。


 やっぱり居た。


 彼は私が勤めているスーパーの向かいの塾でバイトをしている。たぶん、私と同じ大学生。話したことはまだ無いから、当然、名前も知らないので、私は勝手に『先生』と呼んでる。


 先生は今日も眠たそうな、でもカッコイイ顔をしてる。あ、ほらやっぱり。今日もぶどうジュース買ってる。ふふ、おそろい。


 美術史の講義で習ったことだけど、あの有名な『最後の晩餐』は、イエスがパンを取り、「これがわたしのからだである」と言い、その次に杯をとり「これがわたしの血である」といって弟子たちに与えたシーンらしい。聖書を読んだことがないからホントのところはよく知らないけど、少なくとも、私は今、先生と同じ肉体と細胞と栄養を蓄えている。


 そんなことより、今日こそは絶対、隣に座る!

 終電間近というのもあって、日中とは全く違う様子の車内。席がそこもここもあそこも空いているから、隣に座るのは結構目立つし、変な子だと思われちゃう。

 で、でも今日こそは座るもん。


 …………座っちゃった。


 やばい。一瞬ビックリしてる気がしたけど、スマホ触ってるし大丈夫だよね?

 あ~好き好き好き好き好き好き好き好き好き。

 香水は『サ〇ライ』かな?今度買って、答え合わせしよっと。

 ちょっと待って。居眠りしてみる?

 いやいやいや、流石にそれは先生に申し訳ないかな。でも、彼女いないし、これがきっかけで付き合えるかも?

 じゃあ、先生の迷惑にはならないよね?それに、年頃の男の子が欲求不満なまま、塾講師をしてるってのも、あんまり良くないかもだし。

 うん、これは先生のため。私たちの明るい未来のため。


「あ、あの…………」

 きゅん。きゅんってした今。漫画だけの表現じゃなかったんだ。周りには誰もいない。車掌さんも来そうにない。

 二人っきりなんだ、私たち。ふふ、困らせちゃった。私の事で悩んで。私の事を起こして、王子様。


「あ、すいません!」

「い、いえ」

 でも、こうしないと話しかけづらいよね。だからさぁ、いくらでも話していいよ。

 顔が少し赤い。照れてるのかな。もう、シャイなんだから。

「おそろい、ですね」

「え、ああ、ぶどうジュース…………」

「それだけじゃないですよ」


 あ、初めて見せてくれた表情だ。

 怖がってる先生も素敵。他の人は知らない顔。もっと怯えていいからね?


 どこまでも一緒にいるから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る