祝福を捧げよ


 それは三百年に一度のこと。

 選ばれし聖なる歌姫は、大地に祝福の歌を捧げよ。

 それが何千年も前から続く、この世界のことわりであった。


歌長トルリーオ、どうかお考え直しください! 歌姫トルラロリーメイナはまだ十四なのですよ!?」

歌師トルロソーランデよ、これはもう決まったことなのだ」

 天に開けた中庭の隅で、ふたりの男が言いあっている。

 ひとりはこの聖歌隊セクトルズをまとめる組織の長。もうひとりは中堅の歌師トルロだ。ふたりの話題は、儀式のためにに選ばれたひとりの歌姫トルラについてのことだった。

 ロリーメイナ・エリオット・ヒュー・リウィウス。

 今世に至るまで、多くの歌い手を輩出してきた名門リウィウス家の娘。彼女こそ、三百年に一度行われる祝福の儀を執り行うべく選ばれた、今代の”聖歌姫セクティラ”なのだ。

 今年の春に齢十四を迎えるロリーメイナが行うべき儀式の内容は以下の通りである。

 ひとつ、この地に点在する”祝福の塔”へと昇り、その最上階にて祝福の歌を捧げること。

 ふたつ、世界の中心にある”百鳴のうろ”へ降り、祝福の歌を捧げること。

 このふたつを以て、この地は満たされ、すべての命は永らえる。

 遠い遠い過去から続く、この世界の理である。


 ロリーメイナは暗く冷たい岩肌の間でしばし足をとめた。もう、誰も声をかけたりはしない。

 なぜなら、とっくに彼女はひとりっきりであったから。

 儀式のために選ばれ、数年をかけてかの地にあるすべての塔をめぐったのち、ロリーメイナはついにこの”百鳴のうろ”へと足を踏み入れた。

 洞の中は暗く、ただひたすらに奥へと続いている。どこまで歩けばいいのかもわからないまま、ロリーメイナは耳の痛くなるほどの静寂を感じつつ進んだ。足音だけが幾重にも反射して響き、なるほど百鳴と名のつくだけはある、と彼女に思わせた。

 もうどれほど歩いたのかも思い出せない。整地されていない地面はでこぼこと不規則にうねり、ロリーメイナの足はすぐに重たくなってずきずき傷んだ。

 時間の感覚も遠のき、水も食料も持たされなかったロリーメイナは飢えと渇きでふらついたが、それでも懸命に奥へと歩き続ける。約束のためだ。

 かの日に交わした約束は、つらい儀式の間、ずっと彼女の心を支えてくれた。約束を果たすため、もう一度あのひとと会うために、ロリーメイナはどうしても儀式を完遂しなくてはならないのだ。

 しかし、人間の体が補給無しで動ける時間など、たかが知れている。

 限界を迎え、湿った岩の上へ膝をつきかけたそのとき、ロリーメイナの視界はさっと開けた。

 彼女を迎えたのは、一面の花畑だった。

 吹き渡る風が冷たく彼女の意識を目覚めさせ、甘い花の香りが心を落ち着かせる。

 地下であるはずのそこは、けれどどういった理屈なのか、青空に覆われていた。

 雲一つない晴れ空の下へ歩み出たロリーメイナは、いつの間にか、体の疲れが消えていることに気がついた。それどころか、空腹感も、喉の渇きすら癒えている。不思議に思いながらも、ここがきっとその場所に違いない、とロリーメイナは頷いた。

 ここで、最後の祝福の歌を捧げるのだ。

 そして帰ろう。その思いを胸に、ロリーメイナは大きく息を吸い込んだ。


 イヴァルタは、自宅の書斎で執務に励んでいた。

 ここはザナカンドの街を治める領主の住まう館だ。イヴァルタは代々領主を務めるエレミヤ家の当主だった。

 年のころは三十五か、六といったところ。まだ若くもあり、同時に成熟もした頃合いでもある。雪のような白銀の髪と紅玉ルビーが如き赤眼せきがん。鋭くも整った顔立ちは乙女たちの心を惹くに十分なつくりだ。身分も手伝い、彼には多くの縁談が寄せられたが、そのうちのどれひとつにも、彼は頑として頷かなかった。

 イヴァルタは、まだ待ち続けているのだ。

 彼の歌姫が帰ってくるのを。

 あの日の約束が果たされる日を。

 それでも十数年が過ぎ、イヴァルタは日に日に諦めと戦う気持ちが弱まってきているのを感じていた。

 彼女はもう、死んでしまったのではないか、と。

 今から二年前。イヴァルタが当主を継いだとき、先代であった父から聞いた話だ。三百年に一度の儀式、祝福の歌を捧げるその儀式は、本当は歌だけでなく、歌姫そのものすら捧げる儀式であるのだと。

 つまり彼女は――イヴァルタの愛するロリーメイナは、生贄となったのだ。

 この世界のため、すべての生きとし生けるものたちのために。

 父はイヴァルタに縁談を勧めた。結婚し、子どもをつくり、月日が経てば、いずれあの娘のことも記憶から薄れてゆくだろう、と。それは父にとっては慰めの言葉で合ったのだろうが、イヴァルタにとってはとんでもない衝撃だった。

 忘れたくない。

 その思いで、今日まで独身を貫いてきた。

 しかしそろそろ……男性であったとしても、貴族家の人間ならば身を固めなくてはならない時期だ。イヴァルタは覚悟を決めた。

 今年の春、ロリーメイナの誕生日が来るまでに、彼女が帰って来なければ。

 そのときは恋心を忘れ、家のために結婚をしよう、と。


 花が咲いている。

 その芳香が強く、風に乗って鼻まで届いた。濃い紫の花は吹き渡る風に揺れて、辺りは海面のように波打っている。

 ラベンダーはこの街の名物だ。栽培するための畑が丘の向こうまで広がっている。

 久しぶりの景色を眺めながら、今はいつごろなんだろう、と考えた。季節はわかる。ラベンダーの花の盛りは、誕生日のころだから、よく覚えていた。けれど、あれからどれだけ経ったのかは、わからなかった。

 懐かしい香りをかぎながら、またひとつ丘を越える。街に一歩近づく。

 そうして進んでいくと、花々の合間に人影が見えた。

 背の高い、おそらく大人の男。白っぽい髪が明るい日差しを反射する。その男が、こちらを向いた。まだ目の色は見えない。

 男はゆっくりと、彼女の方へと歩き出した。徐々に距離が詰まってゆく。

「……ようやくか」

 最後に聞いたよりもずいぶん落ち着いた響きが、彼女の耳へ届いた。赤い目がかすかに揺れている。少し間をおいて頷いた。

「ようやく、帰ってきたのか」

「…………遅かった、かな」

 絞り出すように聞くと、男は泣きそうな顔でくしゃりと笑った。

「遅い。――今日までに、帰って来なかったら。諦めようと決めてたんだ」

 なのに、となにかが滲んだ声で言う。

「ぎりぎりで、帰って来やがって……。俺の覚悟は、全部台無しだ」

 ごめんね、と呟くと、いきなり腕を引かれた。引き寄せられて、腕の中に納まる。ラベンダーの香りがした。

「よかった……本当に、よかった」

「リタ……」

 彼の、イヴァルタの肩口に額を押しつけ、広くなっていた背中へ腕を回す。ロリーメイナ、と呼ばれて目線を上げた。紅玉ルビーのような瞳が潤んでいる。

「メイ。ありがとう。帰ってきてくれて、本当に――」

 ますます強くなる腕の力を感じながら、ロリーメイナは熱くなる両目を何度もぱちぱちさせて誤魔化した。懸命に背を伸ばし、爪先立ちをして顔を近づける。透明な雫の伝う頬へと唇を寄せた。

「リタ、わたしのリタ。会いたかった。約束、頑張って守ったよ」

 だからあなたも守ってね、と微笑みかける。

「ああ。もちろん」

 イヴァルタも泣き笑いをして、つま先立つロリーメイナの顔に自らの顔を寄せた。青でもなく、緑でもない、彼女だけの色をした瞳を見つめる。

 そっと、白い目蓋がおりて。

 ふたりは十数年ぶりに、ゆっくりと、触れあった。


 伝説の聖歌姫セクティラロビンザード・フィエラ・リウィウス。

 リウィウス家の開祖とされる、歴代最強の歌い手である。彼女の聖歌セクトルは常人の数倍の力を発揮し、隊列を組まねば歌えぬはずの聖歌セクトルすらたったひとりで歌い切るほどの技量をも持ち合わせたと伝えられている。

 そんな彼女には将来を誓い合った恋人がいた。しかし、婚礼を前にして、ロビンザードは聖歌姫に選ばれてしまい、そして洞へと立ち入り、二度と戻らなかったという。

 彼女があの、最奥の花畑で、なにを見、なにを聞いたのか。

 それを知るのはロビンザード本人と、彼女の子孫たる、数千年後の聖歌姫のみ――。

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