初夜?


 性行為をする夜というのは、こんなにも緊張するものか。……と言ったところで、彼は私の隣に居ない。いつも通りシャワーを浴びて、そそくさと自室に籠ってしまった。拍子抜けもいいところである。

 そんな彼とは対照的に、自分の家であるのに、足がふわついていた。だから私は一人、自室の布団に横になった。彼から誘ってくることはなかったけれど、このまま夜が終わるとは思えなかった。根拠は無い。女の勘というやつだ。

 瞼を閉じてみても、しばらく眠れそうにない。それぐらい頭は冴えている。私の体に彼が重なっている空想にふけて、疼く下半身を誤魔化すように背伸びをした。別に欲求不満というわけではないのに。


 閉め切ったカーテンの隙間から溢れる月の光。いつの日か、彼と電話した時のことを思い出した。

 彼が私の家に来てくれる、と決意を固めた日。ずっと一人だった私の生活に、少なからず彩りを与えてくれる。そんな微かな希望をこの月に馳せて、流れ込む声を聞いていた。少し前なのに、遠い昔のことのよう。それは切なく笑いかけてくれる。


 この静かな夜に浸っていたくなって、被った毛布を振り払って、部屋の引き戸をそっと開いた。真っ暗なリビング。月明かりが欲しくなって、閉め切られたカーテンを勢いよく。

 季節は十一月だから、窓を開けてベランダに出るのは気が引けた。けれど、厚着をしているからいいだろうと、私の体はそのまま動いた。

 時折吹く風は相応の冷たさで、思っていた以上に心地の良いものだった。特に面白くない目の前の景色に飽きて、空を見上げる。さっきまで見下していたような星たちは、どこか笑ってくれているように見える。


「――風邪引くよ」


 小さな声ではあったが、静かだからよく聞こえる。聞き慣れた声に、少し胸は躍った。

 振り返ると、彼は吹き込む風に震えていた。両腕を擦りながら、わざわざ私の隣に来てくれる。無意識かもしれないが、そこは素直に優しいなと思う。

 それに、本当に来てくれた。きっと私とそういうことをしようとして。それが本当かどうかは、これから確かめれば良い。


「もう。遅いよ」


 別に約束なんてしてないけれど。悪戯っぽくそう言うと、月に照らされる彼は笑った。引き攣った笑顔は、寒風のせいだろう。少し可笑しかった。

 風の鳴く音だけがこの世界を包んでいる。まだ深夜帯ではないのに、夜というのはこんなにも寂しい匂いをしているなんて。寂れたマンションを眺めながら思う。


「もうすぐ修学旅行だな」

「あー。そうだったね。準備、何にもしてないや」

「あはは。同じく」


 班行動が中心になるとは言え、それを守る高校生は少ない。特別仲の良い友達も居ないから、彼が良ければ二人で巡るつもりでいる。最初で最後の旅行になるかもしれないし。

 持って行くもので、特段調達するものはない。旅行前の準備が楽しいと言う人もいるだろうが、私はあまり好きではない。きっと彼も同じだろうと結論づけた。

 チラリと見る彼の横顔。夏に事故した面影は無くて、言われないと気付かない。いや、信じられないかもしれない。でもあの日を境に、彼は生まれ変わった。


「私のこと――どう見える?」


 彼と向き合う。顔だけを動かして、私のことを見つめている。こんなボカした言い方をしたのも、彼の言葉が聞きたかったから。どんな言い方をして、この場を乗り切るのだろう。試すと言えば聞こえは悪い。だがその通りでもあった。


 その反応は少し意外なモノだった。

 わずかに上がる口元。優しい微笑みを浮かべて、彼の右手が私の顔まで伸びてくる。

 合わせて、早くなっていく鼓動。胸が痛く、喉を締め付けるような感覚が、今は心地良い。


「―――痛っ」


 パチッと何かが跳ねた音とともに、響く。それは私の額を通じて、やがて頭を振動させた。目の前の彼は、ニヤニヤと笑っている。その指の形を見て、確信する。


「無理すんなって。

「―――はぁ。やられた」

「そんな言い方しなくてもいいのにさ」

「ばか」


 この瞬間まで全く気付かなかった自分が情けない。そりゃそうだ。あの横顔だって、彼なのだから。そんなことを見落としてしまうぐらいには、今の私は可笑しい。

 この時間帯。やはり夜というのは、人を本能的にしてしまうのだろうか。彼本来の人格が浮き出てくることも多い。いずれにせよ、私としてはあまり好ましいことではない。

 この彼とは、あまり話したくない。私との関係が可笑しいことも知っているから、下手に揶揄われるのも癪だし。大きなため息を吐いて、ベランダの手すりにもたれかかった。


「何しに来たの」

「ひどいな。君が待ってる気がしたから来たのに」

「……別にそんなんじゃない」


 だから、こうして素っ気ない態度になる。申し訳ない気持ちが無いわけではない。だけど、私だってもう引けないのだ。最後まで貫く必要がある。それが彼のためでもあり、私のためでもあるのだから。


「君は本当に綺麗だな」

「……」

「月も綺麗だ。そう思うだろ?」


 空を指差しながら、笑う彼。心の底から笑っていると聞かれたら、微妙な答えしか出てこない。そんな顔。


「きっと、彼も好きになるさ。だから慌てることないよ」

「あなたは……それでいいの?」

「なにが?」

「このまま消えちゃうかもしれないんだよ。それなのに、どうしてそんなに」


 分かってた。こんなことを問いかけても、彼は笑うと。だって、私は知っているのだ。彼が生に執着していないことを。

 だから問いかけたところで、何にもならない。ならないけれど、どうしても私は腑に落ちなかった。本当にそうなのか、と。


「それは君がよく知ってるだろ」

「……っ」

「彼も楽しんでるみたいだし。わざわざ僕が出る必要もないさ」

「私に危害が及ぶとしても?」


 彼は何か言いたそうな顔をしているが、少し考える。


「ならすぐ病院に連れて行けばいい。いや、初めからこんなまどろっこしいことをしなければいい」

「そ、それは……」

「……ま、いいさ」


 ハッキリとした答えを得られないと感じたのか、彼は話を切り上げるように背伸びをしてリビングに戻る。暗がりに目が慣れて、さっきより明るく見える。その真ん中で、彼は立ち止まっていて。ふと、振り返った。


「でも、僕は君の味方だ。だって君は、僕の恩人なんだから」


 おやすみ、と言い残して彼は部屋に消えていく。残ったのは、開けっ放しの窓と吹き付ける風。月明かりのリビング。たったそれだけ。

 なんだかんだ言って、彼は優しい人間であることには違いない。人格が変わっても、根本は変わっていない。

 初めての感覚だった。初めて、彼と本音で会話をしたような、そんな気分。心の中に居座っていた感情が無くなって、肌寒さを感じるまでに軽くなっている。


「ほんと……ばか」


 これを初夜と呼ぶには、少し苦い記憶。



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