夢幻?②



 「どうしたの?」と問いかけてみても、彼は何も言わずにただ寂しそうな瞳をこの夜にぶつけているだけ。住宅街の明かりで星の光が埋もれてしまった、人工的な夜に。

 驚かなかったと言えば嘘になる。ただ不思議と受け入れるだけの心構えは無意識のうちにされていたらしい。その冷たい手のひらを暖めたいなんて感情が出てくるぐらいには。

 ファミレスから家までの道のりは、歩くには少し遠い。バスに乗るのが一番楽ではあったが、バス停を通り過ぎたあたり、このまま歩いて帰るのだろうと察した。

 どうして彼がこんな行動に移ったのかは、分からない。ただ恋人として生活していく中で、初めてに近い行為。手を掴まれたことはあるけれど、手を繋いだことはない。高鳴る心臓を落ち着かせることでいっぱいだった。


 満月が笑いかけているように見える。辺りに散らばっている星たちは不満気に私たちを見下ろして、これからの約十時間、この世界を照らすのだ。

 たまにすれ違うスーツ姿のサラリーマンも、OLも、長かった一日を終えてきっと短すぎる休息タイムを満喫するのだろう。


 私はこの後、彼に抱かれるのだろうと、直感がそう言った。いつものように根拠は無い。無いけれど、彼の手から流れてくる感情の波は、私の小さな胸を刺激して。ズキズキと疼く下半身は、彼の手を握り返させた。


「ごめんね。急に手なんか繋いじゃって」

「う、ううん。そんな良いのに」

「……助かるよ」


 恋人だから、恋人だから、何をしても大丈夫。大丈夫だから、と、私は自身に言い聞かせている。その事実を知ったら、きっと彼は気を遣って何もしなくなる。

 元はと言えば、私が勝手にやったこと。別に嫌じゃない。彼のことは嫌いではないし、をしても後悔はしないだろう。


「なぁ」


 彼の声は、少し震えていた。悟られないように意識していたようで、見上げた横顔は引き攣った笑みを浮かべている。


「俺たちってだよな」


 どうしてだ。どうして、今。他に言う言葉は一杯あったはずなのに、どうして出てくるのは今一番聞きたくない言葉。その質問をされるのには慣れているはずなのに、なのに。

 震えた言葉と同じように、私の感情にも僅かな波が立った。それを見逃すほど、今の彼は鈍感ではない。

 それを認めたのか、否定したのか。分からないまま、私の手を強く握って見せた。少し痛かったけれど、この感情を誤魔化せる気がしたから、気にしないことにした。


「……最近変なんだよ。俺」


 彼が立ち止まったから、必然的に私も足を止めることになる。聞き返す前に、彼は口を開いた。


「自分が自分じゃないみたいでさ。そもそも俺って何者かすら分からなくなる。事故までの記憶だって、正直曖昧で。気が付いたら、君が居て、恋人だって言うから、その……信じて」


 あぁ、やっぱり。ずっと我慢していたのだろう。隠して隠して、この現実を受け入れようとしてくれていた。だから、堰を切ったように言葉が紡がれる。その勢いに少しだけ圧されながら。

 彼本来の人格が浮き出てきたことによる影響だろうか。今まではここまで悩んでいる顔を見せなかっただけに、私も何と声をかけるべきか分からない。

 ……いや、正直に伝えるべきなのだろう。「今の君は本物の人格じゃなく、偽物なんだよ」と。自分でも思うが、あまりにも酷い字面である。


「変だよな。やっぱり。悪い。忘れてくれ」

「……そんなことない」


 再び歩き出そうとした彼は、立ち止まって。少し不思議そうな顔をしていた。私たちを繋いでいるこの手を離してしまえば、もう二度と一緒には居られない気がして、精一杯の力で君の手を握り返してみせた。


「知らなくて良いことの一つぐらい、この世界にはあると思う」

「……それで?」

「真村くんなら、どうする?」


 私は嘘つきで、ずるい人間だ。最終的には彼の判断。それ次第で、全てを告白する。言い換えれば、彼が否定すれば、この場を切り抜けられるとすら考えた。本当にずるい。

 そう反応してくれることを、心のどこかで願っていて。そんな自分が嫌で、嫌で、嫌すぎて。彼の恋人として、生き直そうと、彼の純粋な気持ちを利用しているだけの人間だ。


「前、神山先生から言われたよ。思い出すと、辛いこともあるって」

「そう……なんだ」

「その時が来たら、教えてくれる?」


 それがいつになるのか、多分彼自身も分かっていない。一年後かもしれないし、十年後になるかもしれない。もしかしたら、明日になるかもしれない。

 この場を切り抜けられたと安心した感情より、先の見えない暗闇に溺れたような感覚に陥った。将来のことなんて、考えてこなかったから。

 この生活だって、いつまで続けられるか分からない。高校を卒業してからも続いている可能性だってある。このまま結婚することだって……。


 その頃の私は、何を思って、何のために彼の隣に居るのか。もしそれがだとしたら、きっと上手くいかない。残るのは後悔と、今この瞬間、感じた思春期の味を全否定するだけの事実。

 逃げているのは私の方で、彼は彼なりに向き合おうとする姿勢が見える。ただ言葉に強引さは無いから、きっと心の中でせめぎ合っているのだろう。


「うん。分かった」


 そもそも、これを恋心と呼ぶのは。やはり違う。本当の恋を知らない私が、彼を恋人呼ばわりすること自体、おかしいのだ。

 虚しくなって、夜空を見上げる。相変わらず星たちは不満気に見下していて、拗ねた子どものように輝いている。自分を重ねてみると、それも悪くないと、また自分に嘘をついて。


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