夢幻?①
自分の口から出てきた言葉に、驚いたのは彼女より俺の方かもしれない。そんなことを言うつもりもなかったのに、勝手に喉をすり抜けて。優しい嘘、だなんて。
彼女が嘘をついていること自体、察していた。察していただけだ。触れないように、触れないように、何事もなく一日が終わるように。そんな潜在意識が自身の中にあったんだと、今この瞬間痛感することになった。
「真村……くん?」
何かを確認するように、酒井は名を呼んでみせた。なんだよ、と言おうとした喉は、電撃が走ったかのように痺れた頭に邪魔をされた。
痛い。頭から足の先まで貫くソレは、思考を乱すには十分すぎる。かえって、今は有り難くもあった。余計なことを口走ることがないからである。
「あぁ……いや」
十五秒ぐらい続いた痺れが落ち着いて、酒井の言葉に返答する。これを返答と呼んで良いものか分からないが、反応したという意味では同じだから良いだろう。
彼女は何か隠している。それは目が覚めた時から抱いていた違和感として、長いこと俺の胸の中に居座っていた。でもそれは確信に至るわけではなくて、あくまでも俺自身の懸念。そこに留まっていた。
……いや、留めていたと言う方がいい。深く考えないようにしてた時点で、ソレを認めているのと同義である。
「最近は、良い夢見られてる?」
「うん……まぁ」
「そっか。良いこと良いこと」
そう言う君の笑顔は、僕があまり見慣れないモノであった。引き攣ったような、心の底から笑えていない。作った仮面のような顔。これまでなら「綺麗な顔が勿体ないよ」とでも言っていただろうか。
生憎、僕はそんな男じゃない。彼女が思っている以上に捻くれ者で、都合の悪い現実から逃げ出そうとする弱い人間なのだ。
目が覚めたら、君が居た。まして恋人だと言い張るではないか。別の世界に転生でもしたのかと思ったけれど、君が恋人になってからの毎日は本当に幸せだった。楽しそうに生活している僕は、いつしか生きることを放棄していた。
生きているけれど、ずっと眠ったままの感覚。動く体は、もう一つの人格によって操られていると分かっていても、ソレで良かった。それで僕が幸せなのだから。
「ハンバーグ、残ってるよ」
「うん。もうお腹いっぱいだよ」
「痩せ我慢?」
「違いますー」
その人格は、彼女と上手くやっているのだろう。目が覚めたら恋人が出来ていたなんてふざけた展開を受け入れるぐらいには、頭のネジが外れている男だ。
ソレを言ったら、僕だって変わらない。僕だって、きっと頭のネジは外れっぱなしだ。いや、最初から留められてすら無い気がする。
人格が入れ替わったことに気づいたのは共同生活を始めてしばらく経ってからだ。意識が覚醒したと思えば、見知らぬ部屋の布団に横になっていたわけで。
でも、目が覚めてから不思議と「酒井凪沙の家」だと言うことは認識できた。理由は分からないが、無意識のうちに意識を共有していたのかもしれない。もう一人の自分と。
にしてもだ。同じ家でクラスメイトと暮らしているのだから、驚くなと言う方が無理な話である。だから戸惑っているのは、彼女だけではない。そんなことを言えた口では無いが。
そして、ソレに彼女は気付いている。僕の人格が入れ替わっていることに。入院する前までは彼女とあまり話すらしていない。とは言ってもだ。やはり生活を共にすると違和感を抱いたのだろう。
そもそも、彼女のことをよく知らない。クラスメイトであること以上のことも、それ以下のことも。美人なのにカースト上位に居るタイプではないから、個人的には好みなのは否定しない。もうキスの一つぐらいはしているだろうと考えると、悔しい。
「帰ろっか」
「そうだね」
僕のことを無視するのが定番になっていた彼女と普通に会話が出来ている。もしかして気付いていないのだろうか。繕ったつもりはないし、普段のトーンはあまり変わらないのか。
思えば、ファミレスなんて久しぶりだ。最後に来たのはいつだろう。記憶の海を泳いでみても、見当たらない。遡って遡って、それだけの距離を泳ぐ。えらくゆったりとしか進まない記憶の中の自分が情けない。
レジの前。彼女の一歩後ろに立ってみる。甘い香り。意識していなかったが、彼女は僕の恋人なのだ。帰ってあんなことやこんなことをしても怒られるはずはない。……いまさらな話である。
ふと、記憶の海にポツンと浮かぶ。このイメージが、目の前に広がっていく。髪の長い女の人。懐かしい。ひどく、手の届かない感情とともに浮かび上がる希望の画面。これは僕の母親だ―――。
「―――ねぇ、彼女に奢らせるつもり?」
「えっ? あ、あぁ……ごめんごめん」
悪戯っぽく笑う彼女の声で、体が覚めたような感覚がした。レジの前で、バイトの女子大生が微笑ましく俺たちのことを見つめている。
いつの間にかだ。酒井とファミレスに来て、ハンバーグを食べて、コンビニに寄ろうと話をしてから……。
うーん。最近こういうことが多い。記憶の欠如、というか、物忘れに近い何か。神山先生の言っていた記憶障害の可能性を、今こうして考えてみる。思い当たる節は多い。でも今が楽しいから。
本当にそれで良いのだろうか。
今になって、そんなことを思う。自分の存在が分からない。俺は、何者なのか。唐突に怖くなって、ファミレスを出る君の手を握ってみせた。
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