幸福?⑦
ファミリーレストランのハンバーグは、高級店とは違った美味さがある。上品な味ではないが、私の舌には十分すぎるほどマッチングする。それは彼も同じなようで、私が作ったモノよりも勢いよく頬張っている。少し悔しい。
病院で神山先生と話した帰り道、偶然帰宅していた彼と遭遇した。これから夕飯の支度をすると告げると、外食しようと彼が提案したのだ。彼は「空腹だったわけではない」と笑っていた。別に怒ったわけではないのに、そんな慌てられると変に勘ぐってしまう。ただ気にかけてくれたようで嬉しかったのも事実だ。
時刻は十九時前。仕事終わりの社会人がちらほらと見える中、部活終わりの高校生が大半を占めている。学校の近くというわけではないが、知り合いに会うかもしれない。でも今はどうでもよかった。
美味しいね、と言って笑う彼は、無邪気でどこか不思議な雰囲気を纏っていた。一瞬、人格が入れ替わったのだろうかと勘ぐったが、一人称は「俺」のままだったから、深くは考えなかった。
病院で先生と話していた時に、頭に浮かんだ彼の顔では無かったから。つい一時間前のことなのに、冷たかったブラックコーヒーの味が口に戻ってきたようだ。デミグラスハンバーグには、あまり合わない。
「ドリンクバー頼めば良かったな」
「コンビニ寄って帰ろうよ。私も何か買いたいし」
「だな」
飲み放題のお冷を寂しそうに喉に流し込んでいる彼が少し可愛く思えた。そもそもドリンクバー自体割高なのだが、ラインナップを見ると飲みたくなるのも分かる。このストレスを発散するなら、衝動買いが丁度いいだろう。
窓際の席だから、車の音がよく聞こえる。仕事終わりの時間と重なっていて、いつもよりもその音は大きい。この人たちはみんな、生きる為に必死になって働いているのだ。
そう思うと、私はかなり恵まれている。バイトをせずとも家賃は払わなくていいし、生活費だって困らない。少なくとも高校を卒業するまでは、この生活が担保されている。そう出来る理由は、あまりいいモノではない。
人生は本当に理不尽だ。
生きたい人間が生きられない。死にたい人間が死ねない。その輪廻は終わることがなく、きっとこの先も続いていくのだろう。私たちも、例外じゃなく。
「何かあったか、凪沙」
名前を呼ばれて、目線が下がっていたことに気付いた。窓の外を眺めていたから、彼も尚更そう見えたのだろう。咄嗟に「何も無いよ」と言ってみせたが、さすがに誤魔化しきれなかった。こんな私を見て、彼は苦笑いする。
「疲れてんじゃないのか。明日は弁当いらないぞ。無理に早起きしなくていいから」
無邪気な優しさだった。今はその優しさが胸を締め付ける。神山先生からの忠告が頭をよぎって、上手く言葉が紡げなかった。
彼の治療が始まってしまえば、今目の前にいる彼はどうなるのだろう。それこそ、私の知らないところに行ってしまうのではないか。死んでしまうのではないか。私を恋人として迎え入れてくれた彼が、居なくなってしまうのだ。
「………ばか」
「なんで!?」
「なんでも」
この複雑すぎる感情を、上手く処理出来たのなら、今の私はここに居ないだろう。それは私の目の前にも、誰一人として居ないことを意味する。
車が行き交うように、胸の中も慌ただしかった。感情というのは不思議なモノで、手につけたく無い時に限ってハッキリと見える。普段なら言いたくない言葉でも、今なら素直に問いかけられる。
「ねぇ」
私が声を掛けた時、彼は最後の一口を口に運んでいた。名残惜しそうな顔をしている。少しファミレスに嫉妬する。慌てて咀嚼して余韻を楽しむ余裕なんてなさそうだ。
不思議とこの瞬間は、周りの喧騒が聞こえなくなった。目の前に居る私の彼だけが、私を見つめてくれている世界。叶うのなら、ずっと居座っていたいと。私はそう、自分に言い聞かせていたことに気づいた。
私は本当に哀れなのかもしれない。虚しいけれど、それを否定するだけの材料は無い。自身の存在価値を彼に押し付けているだけの世界。こんなモノは、一刻も早く壊れるべきなのだから。
「今のままで良いと思う?」
口元を紙ナプキンで拭いている彼は、私の目を見て驚いてみせた。どんな口をしているのだろうと想像して、私の口元まで緩んでしまった。その瞳は戸惑いの色をしている。当然だ。あまりにも唐突で話が見えない問いかけ。
ゴミになった紙ナプキンを丁寧に折りたたんでいる彼は、小さな息を吐いた。
「良いんじゃない」
「どうして?」
「だって、幸せだから」
あぁ。それは杞憂であってほしかった。だったら、今の彼から掛けられた言葉を、素直に受け取ることが出来たのに。そして、その余韻に浸ったまま彼に口づけでも出来ただろう。
今、私の喉まで上がってきた塊は、この幸せを壊すモノになる。飲み込めば、壊れることはない。でも彼のことを騙し続ける罪悪感は、私も気づかないところで心を侵食していたのである。
「私は嘘つきだよ」
目を合わせるのが怖くて、窓の外に逃げる。先ほどより車が減っていて、彼の呼吸音が聞こえてきそうなほどの静寂。本当はそんなことないのに、今の私は二人の世界に溺れていたから。
その静寂は、ジリジリと神経を擦り減らす。手のひらに浮かんでくる汗を隠すようにテーブルの下に逃げる。逃げてばかりの自分に嫌気すら差さなくなっていた。何を言われても仕方がないと思って、彼の言葉を待った。
それは、予想していなかったモノだった。
「優しい嘘じゃないか」
驚いて、彼の目を見て、また目線を下げる。食べられるのを諦めたハンバーグのかけらが私に話しかけてくるように思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます