幸福?⑥
私から彼のことを聞いた神山先生は、分かりやすく狼狽えた。普段落ち着きのある大人、という印象が強かったから違う一面が見られて少し可笑しい。
でも話の内容はそんな単純なモノではなくて、次第に先生の顔が険しくなっていくのを、私はただ見つめることしか出来なかった。いつものように用意してくれたインスタントコーヒーも、すっかり冷たくなっていた。
「記憶障害の可能性は考えてたけど。まさかそんなことになってるとはね」
もっと早く言うべきだったと、申し訳ない気持ちになる。とは言っても、別に反省はしていない。
「人格の変貌。口ぶりから、君は前から知っていたんだね」
「……すみません」
「いや良いんだ。怒ってるわけじゃなくて」
私が性格だと思っていたソレは、確かに人格と言った方がしっくりくる。
それにしても、優しい先生らしいフォローだった。人格が変わっている、というのは以前から付き合いのある人間にしか分からないこと。まして彼の恋人だと名乗る私が何も言わなかったのだ。きっと先生もそれで信じてしまった部分もあるはず。そう考えると、やはり申し訳ないことをしたと思った。
性格が変わって、全ての事案から解放された彼を、私は放っておくことが出来なかった。全てを知っていたから、彼が病院に運ばれた経緯から、なにから。だから私は、もう彼に辛い思いをして欲しくなかった。申し訳ないことをした、とは思ったけれど、後悔は一切していないのが本音だ。彼のおかげで、私も楽しい生活を送れているのだから。
「それなら学校側も気付くはずだけど」
「パッと見た感じは、大きくは変わってないんです。一人称が変わるぐらいで」
「ならどうして君は―――」
先生は言いかけて、苦笑いした。
「いや、君だから気付いていたのかもね」
そう思う根拠は何なのだろう。問いかける気にはなれなかったけれど、私の全てを見透かされた気になる。あまり良い気分ではなかった。
この人は私のことを知っている。私の過去のことも、きっと学校側と話しているだろう。だから彼との共同生活を認めてくれるような発言だってしたわけで。
すっかり湯気の消えたコーヒーを啜っている。いつもより勢いがある。猫舌らしい先生にとって、一番飲みやすいのかもしれない。
「僕は精神科医ではないから、治療は出来ない。紹介ぐらいは出来るけど」
「やっぱり治した方が良いんですか」
「そりゃあ、そうだね」
だって、と彼は続ける。
「君の言う事実を鵜呑みにするなら、真村君の症状はれっきとした病気だ。それが事故のトラウマから来るのか、それ以外の何かから来るのかは、分からないけれど」
「……嘘じゃありません」
「分かってるよ。気を悪くしないで」
ならさ、と彼は私を見る。眼鏡の奥にある黒い瞳が私の心を突き刺しているように思えて、背筋が痛んだ。
「なんで今言おうと思ったの?」
案の定、胸の奥を
足を組んで私の言葉を待っている彼の姿は、まさにカウンセラーのよう。精神科医ではないと言っていたが、側から見たらそんなことはない。雰囲気で人を騙せるぐらいにはソレっぽい。
ブラインドから溢れる夕陽に視線を奪われる。彼はもう家に帰ってしまったのだろうか。早く帰ってご飯を用意しないと。脳裏に浮かぶのは優しい笑顔で夕飯を頬張る真村真嗣の顔。自信があるわけではなかったけれど、彼のおかげでちょっぴり自慢出来る。
「……幸せが何なのか分からなくなって」
自嘲するように言う。ことの顛末を鼻で笑いながら、まるで私自身の人生を否定するように。
人の幸せというのは、その人にしか分からない。私の行為は、間違いなく彼自身を否定している。百人に聞けば、きっと九割の人間がそう言うだろう。
彼の幸せを考えれば、目覚めたあの日から、リセットさせた方が良い。だから私は、彼の人格が変わったのをいいことに。
「少し不思議だな」
「え?」
「ほら。よく言う二重人格は本来の性格にもう一つの性格が浮き出てくるのが一般的だと思ってたからさ。話を聞くと、彼はソレに当たらない」
随分と抽象的な言い回しだったが、この人は専門じゃないことを思い出した。だが彼の言う通り、目が覚める前の性格が完全に姿を消したのは不思議である。
大きくは変わらないと言っても、雰囲気がまるで別人だった。今の彼に慣れすぎて感じた違和感。ある意味、共同生活を送っていたからこそ気付けた事実かもしれない。
「いずれにしても、早く治療するべきだね。この事実を、彼は知ってるのかい?」
首を横に振る。
「黙っておくことは……出来ないですか」
私がそう言うと、先生は目の色を変えた。
「今は何も無いかもしれない。でも人格というのは増える可能性もある。君に危害が及ぶことだってあり得るんだから」
「そうなっても……!」
「駄目だ! それは大人として見過ごせない」
語気を強めた彼の圧に、私は何も言い返せなかった。別に怖いとかそういうわけじゃなくて、その気を削ぐ雰囲気が彼にはあった。
「君はまだ子どもなんだ。責任が付き纏わないね」
「……」
「二人が一緒に暮らせてるのも、色々な大人たちが責任を持って管理すると決めたから。何かあったら、君たちじゃなくて大人に迷惑をかけることになる」
言っている意味分かるよね、と問いかけるその声は優しい。うなずくと、先生は笑った。
「それに、君たちを守るのも僕らの義務だからね。それこそ、責任があるんだ」
「……はい」
「君が何を隠したがっているのかは、よく分からない。でもそれより大切なのが、きっとあるはずだよ」
コーヒーを飲み終えた彼は、立ち上がってグラスを片付け始めた。私だけこの世界から切り離されたようで、気持ちが悪い。
何より、私の行為を真正面から否定された気がした。事実、先生の発言は私の思惑を全否定するもの。生まれ変わった彼を、苦しかったあの日に戻してしまおうとする。認めたくない。あんな彼の顔は、もう見たくない。
私の手をつけていないコーヒーは、すっかり冷たくなっていて美味しくない。今は熱すぎるぐらいが丁度いいのに。そうしたら、喉が火傷してこの不快な感情を誤魔化せるのに。
そんなことを思いながらも、頭に居座るのは切なく笑う彼の顔であった。
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