幸福?⑤
十一月になった。このよく分からない同棲生活も我ながら様になってきたと思う。家事も分担して互いに支え合っている。高校生とは思えないほど、質素な暮らし。これには担任の藤村先生も驚いていた。もちろん、病院の神山先生も。
恋人活動を一切していないから、余計なことが起こらないのも事実だった。今の私たちは恋人ではなく、家族というか、きょうだいというか。彼は私のことを女として認識していないような気がしてならない。思春期の女子高生としては、非常に納得できない。
寒さが一段と厳しくなってきたのと同時に、私たちの関係性も少しずつ変わってきた。色々と要因はあるものの、一番は彼のこと。あの日見せた姿が、顔を見せる頻度が増えてきたのだ。
その時の彼は、ひどく懐かしい雰囲気を纏っていた。目が覚める前の、あの彼が目の前に居るのだ。だから私は確信した。徐々に彼の中身が戻りつつあると。
本当だったら、真っ先に病院で相談するべき案件だろう。事故にあった彼が、目を覚ましたら二重人格のようになっているのだから。でも私は不思議と落ち着いていた。
この日、キッチンで洗い物をしている私に声を掛けてきた彼は、その懐かしい雰囲気を纏っていた。
「この生活も悪くないね」
急になに、と口が反射した。彼であって彼では無いとすぐに分かった。案の定、私と目を合わせる彼はいつもより堅苦しい顔をしていた。
「君のご飯は美味しいし、弁当だって作ってくれる。暖かい綺麗な部屋で眠れるんだから、僕は幸せ者だ」
「……変なの」
「それは君もだろ?」
ひどく大人っぽくて、全てを包み込んでくれるような。整ったとは言い難いその顔に余裕みたいなモノが窺える。水を止めて、タオルで手を拭く私を見て、彼は笑った。
「良い大人になるんだろうな。きっと」
「それはどうも」
この彼とは、あまり話をしたくない。それが本音だった。ボロが出るとかそういうのじゃなくて、純粋に無駄なのだ。この時間が。
会話というか、質問攻めに合う。どうしてこんな状況になっているのか、と。それに真面目に受け答えするには、正直時間が足りない。本人が一番知りたがっているそれは、彼が思っている以上に重くて辛い事実なのだ。
それに、ここ数週間の彼を見ていると、性格が変わるのはほんの数分。無視したところで、私と暮らしている彼はその事実を知らない。ケロッとした顔で私の前に姿を見せる。
「……僕はどうなんだろう」
ところが、今日は少し違う。質問というか、自分に対する疑問。そしてそれは、私と彼の関係性のことを遠回しに心配している。彼にその意図があるのかは分からないけれど、力無い声を聞いていると、無視するのはあまりにも可哀想な気がした。
「心配しなくても、良い大人になるよ」
「励ましてくれるんだ。いつも無視するのに」
「別に……そういうんじゃない」
この彼は、会話の記憶を持ったままだ。最後に話した少し前までのことを覚えている。だから少しタチが悪いのも事実。いい加減なことを言って状況が変わるのはあまり好ましくない。
だから何も言いたくなくなる。口喧嘩では勝てないと分かっていたから。
「今が幸せだから、このままでもいいのかもね」
さりげないそれは、私の胸を痛ませるには十分な言葉であった。素直に頷けない。
ソファに腰掛けて虚ろな目で真っ暗なテレビを見つめている。その目には未来なんて映っていない。あるのは、あの日から進まない現実である。
それを思うと、私の行為は彼の人生を否定しているように思えた。どういうわけか、目覚めたらまるで別人になっていた彼のことを受け入れて。その代わり、目の前の彼をまるでタンスの隅に追いやるように。
私が存在する限り、彼の幸せというのは永遠に訪れない。自分でも、きっと彼も分かっている。じゃないと、こんな悲しそうな瞳をしない。やるせなく、私は電気ケトルに水を溜めた。
「コーヒー、飲む?」
「えっ?」
「好きでしょ。ブラックコーヒー」
すると、彼は苦そうに笑った。
「甘い方が好きだな。僕はそんな見栄を張ってるんだね」
「……そうだよ。すごい見栄っ張り」
「そっか。そう、なんだ」
ひどく不思議な、海に溺れているのに息苦しくない感覚。言葉にするのが難しく、こんな抽象的な表現になる。
まるで中身は別人なのに、そうやって見せる顔は私の知っている彼。日常が日常じゃない気がして、電気ケトルの沸騰する音すらいつもと違う錯覚に陥った。相変わらず寂しそうな顔をする彼は、一つ小さな息を吐いてみせる。
「君は本当に優しいね」
「……どうしてそう思うの?」
「思うさ」
答えになっていない、と続けようとしたけど、彼は瞼を閉じている。やがて聞こえる穏やかで規則正しい呼吸。眠ってしまったようだ。
体に入っていた力が抜ける。ため息となって疲れも抜けていく。でもそれは、ほんの一瞬のこと。手元に残ったのは、彼のために用意した甘めのインスタントコーヒー。きっと目を覚ましたら、彼はこれを飲まないだろう。根拠はないけど、これは確信であった。
捨てるのも勿体ない。別に飲まないわけじゃないしと、口付けてみる。口の中に広がるのは、喉が渇きそうな甘味と背中に隠れながらもはっきりと主張しているカフェインの存在感。
流石に甘すぎたと思った。でも、これを飲んだ彼の顔を想像すると、それはそれで可笑しくて口元が緩んだ。
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