幸福?④



 彼女の口から出てきた言葉を完全に理解するまで、いくらか時間を要した。

 唇をツンと尖らせ、心を下から舐めるような艶かしい視線。冗談だろ、なんて言う機会すら与えない空気が自身の喉を締め付ける。


 不思議なことは続いた。ここに至るまでの。つい数分前、ベッドで横になったはずなのに、今は恋人の隣に座っている。その恋人が唇をこちらに向けているのだから、狼狽えるほか無かった。


 彼女が姿勢を変えるとソファの革が軋む。ギシギシと聞き慣れない音を奏でながら、俺の方に少し近づいてみせた。

 俺の使っているシャンプーとは違う香り。甘くて、あまりにも毒々しい。鼻の奥から出血する錯覚すら覚えた。ゴクリと喉を動かせば、窒息させるだけの力がソレにはある。


「ねぇ」


 瞬間、俺は察した。このまま彼女と瞳を合わせてしまえば、飲み込まれてしまうと。ふと、目が覚めたあの日のことを思い出した。

 君とチューがしたい、なんてセリフ。いざその状況に追い込まれると、体が硬直して動かない。喜んで彼女の唇に吸い付こうとしない。見栄を張っていたあの頃の自分が情けなくもある。


「……やめろって」


 嫌とは言えなかった。彼女も決して本気ではない。だから、こうやって突き放せば終わるだろう。ただのじゃれあいだと、言い聞かせて。

 その目論見は、あっけなく失敗に終わった。俺の左腕に手を回して、彼女はグイっと顔を近づける。


「チューしたいんじゃない?」

「いまは別に」


 酒でも飲んでいるのか、と口走りそうになる。喉まで上がってきたそのを必死に飲み込む。

 そんな俺の様子が可笑しかったのか、酒井は口元を緩めたらしくクスクスと音を立てる。笑うならもっと大きな声で笑ってもらった方が、気が楽でいいのに。


「見栄っ張り」

「……別にいいだろ」


 彼女のその指摘があまりにも的を射ていたから、返す言葉が見つからなかった。適当に誤魔化したところで、その場を切り抜けることが出来るわけもない。

 ところが、彼女は近づけていた顔をぷいっと離してみせた。揶揄っているのか、俺が横を向くと、にやにやと笑っている。


「ふーん」


 でもその笑顔は見慣れたモノより寂しくて、どこか心は違う場所に飛んでいってしまったような違和感を抱く。この不気味な感覚。自分がどうしてここに居るのかすら分からないのだ。今の俺は、何かが可笑しい。

 まじまじと俺を見つめる彼女は、何か思うところでもあったのか。態度を急転させた。


「なーんてね。照れちゃって」


 これを助かったと思うのは違う気がした。あのまま流れに身を任せて口づけしたとしても、それぐらいなら良いだろう。高校生同士の健全な恋人活動として済まされるはずだ。

 ならどうして、こんな感情に苛まれなきゃいけないのか。ぬかるみに足を取られたわけではなくて、これはまさに沈んでいく沼だ。答えのない思考は彷徨い続け、やがて考えることをやめてしまう。目の前の彼女は、そんな目をしていた。


 でも俺を放っておくつもりもないらしくて、隣に座ったままソファの背もたれに体を預けた。

 両の手のひらを交わらせて、天井に向けて伸ばす。声にならない声を漏らしながら、酒井は凝り固まった背中を懸命に伸ばしている。スウェット越しに分かる体のラインがくすぐる。だから目線を逸らして何も見なかったと言い聞かせた。


「映画でも見る?」

「いや……もう寝るよ」


 いずれにしても、気味が悪かった。この静寂が余計に胸に広がる波紋を際立たせている。どうせなら雨でも降ってもらって、意識が分散できればいいのに。


「良い夢、見れるといいね」

「なんだよ急に……」


 酒井は不思議そうな顔をして、何か言いたそうな口元の動き。ソレを聞くまでは立ち上がるのもやめておこう。無駄な優しさだと分かっていても、別に良い。

 今日は特段酷かった頭痛も、すっかり治っていた。近くの内科で貰った薬が効いたのだろう。明日からは学校に行けそうだが、一度休んでしまったら何度だってそうしたくなる。


「もう頭、痛くない?」

「うん。治ったよ」

「そっか。よかった」


 先に立ち上がったのは彼女だった。体半分こちらを向いて、微笑んでいる。安心した様子は事実だが、やはり先ほどからの違和感が拭えない。まるで何かを隠しているような、疑問。

 先に寝るね、と彼女は目の前の引き戸を開けて、そのまま自室に消えた。あんなに言い寄ってきた彼女がこうもあっけなくなるものなのか。女というのはよく分からない。

 一度眠ろうとしていたせいか、体が重い。部屋の布団まで戻るのすら億劫になるほどに。そう言う意味で、ソファの背もたれというのは悪魔的な存在である。


 胸の鼓動が早まっている。危機感から抜け出せたからか、はたまた別の理由があるからか。正直な話、今の俺には見当もつかない。

 頭が疲れている。燃料となる糖分を寄越せと喚いている。しばらく待てと強く念じても言う事を聞かないもんだから、自身の両頬をパチンと手のひらで叩いてみた。

 大して変わりはしないが、全く変わらないわけでもない。二人掛けのソファに思い切り足を伸ばしてみた。流石にはみ出るものの、やはり横になるのは心地が良い。


 瞼が重い。上下がくっつくまで残された時間はもう無い。堪える必要もなくて、大人しくそのまま瞼を閉じる。

 良い夢見れると良いね、彼女の声が頭に浮かんだ。



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