幸福?③
その日の夜は、いつになく力の抜けた彼を見ながら食事をした。
頭痛も治まり、体調が良くなったとは言え、まだ全快というわけではないらしい。それでも、決して手の込んだとは言い難いおかゆとスープを食べ切ってくれたのは嬉しかった。
病院から処方された内服薬を飲んで「熱も無いから」と風呂も済ませた。火照った彼が出てきた頃、すでに時刻は二十二時を過ぎていた。彼はそのまま自室に籠った。
私も今日はいつもより体が重い。風呂を適当に済ませ、適当に肌ケアをし、適当に髪を乾かした。
そのまま誰も居ないリビング眺め、明かりを消した。そして、火照った体のまま自室である和室の空気を吸う。敷かれた布団に体を投げると、硬直していた筋肉が一気にほぐれたような気がした。
重力に圧されて溜まっていた息を吐く。枕に沈むそれは、歯磨き粉の少し辛い匂い。
疲れているのに、不思議と眠る気にはなれなかった。仰向けになって、部屋を照らす電球が思いの外眩しいことに驚いた。
スマートフォンを使って、つまらないニュースに逃げる。今日も何処かで殺人事件が起こり、人の「生」を否定する。人間というのは不思議なモノで、自身が暮らす国で毎日のように起こるソレに慣れてしまっていた。決して認められないものだというのに。
「……なぁ。起きてるか」
引き戸を二回叩き、向こう側から彼が私に呼び掛けた。空中にあったスマホが手から溢れてしまうほど筋肉が反射したが、当然彼には見えない。戸があって良かったと実感した。
「うん。起きてるよ」
悟られないように反応する。戸越しだったけど、彼の呼吸がよく聞こえる。それぐらいこの家は静寂に包まれていた。
「少し話さない?」
「話? う、うん。いいけど」
思わず狼狽えた。こうして夜に、互いの部屋で横になった時間に、声を掛けられたのは初めてだったからである。そしてそのせいで、冷静さを失ってしまった。
「へ、部屋……入る?」
「あはは。リビングに居るよ」
彼は笑いながらそう言った。その声が少し遠くなっていく。
口走ったそのセリフ。別に彼を誘ったつもりはない。だけど、字面だけみたらそうとも受け止められる。理解した瞬間、頭がやかんのように沸いた。
沸騰した水は中々冷たくならない。だが彼を待たせるわけにもいかず、熱くて溢れそうになる感情を抑えながら戸を開けた。
二人でちょうどいいサイズのソファに腰掛けた彼は、空いた片方をポンポンと優しく叩いた。ここに座れと促している。別に嫌がる理由もない。恋人同士なのだから、これぐらいどうってことない。
彼の隣は、かすかにシャンプーの匂いがした。髪質が柔らかいらしく、風呂上がりは特に匂いがするといつの日か言ってたような気がした。
先ほど消したばかりの明かりが再び私たちを照らしている。電球が泣いているようにも聞こえる切なさ。恋人の隣に座ったところで、誘った彼が話し出すことは無い。
「……話って?」
我慢できず、問いかける。普段なら気にならないこの静寂が、今は私の心を締め付けるには十分すぎた。
彼の顔を見るのも少し躊躇う。だから視線は下げたまま、変なシミができているカーペットに落とす。そろそろ新品に替えたいなんて思うと、彼がすぅと息を吸った。
「ふと、夢を見るんだ」
空想的で非現実的な言葉から、彼の内なる語りが始まる。まるで小説の一節のような美しさがそこには存在した。下手に相槌を打たず、私はジッと耳を傾けた。
「君に抱かれている、奇妙な夢だ。……抱かれているというのは、変な意味じゃない。俺が仰向けで、背中に手を回す君は、涙を流して俺に何かを言っている。その言葉までは聞こえない。でもそれを、俺は夢だと思えないんだ」
まるで台本を読んでいるようだった。こんなにもスラスラと淀みなく話す彼をみたのは、ある意味初めてだったかもしれない。……感心する私をよそに、心は痛む。
「なぁ君は……本当に僕の恋人なのか?」
彼の右手が私の心臓を鷲掴みしているようにすら思えた。それぐらい心の距離が近づいた気になる。歩み寄ったわけではない。一方的に彼が近づいてきたのだ。
そして、今この空間の時間が巻き戻された。いま隣に座る彼を纏う空気が変わり、私が一人暮らしだったあの頃の雰囲気が強烈に私の鼻を刺激した。
「どうして僕に嘘を吐いた?」
「いや……」言葉弱めに逃げるしかなかった。彼の語気は強かったが、私に詰め寄る感じでもない。自分のことなのに、どこか他人事のような興味の持ち方のように見えた。
「思い出したんだ。真村くん」
観念した私が聞くと、彼は笑った。「いや」と首を振りながら言うもんだから、揶揄っているとしか思えなかった。
「違う」
「違わないよ。一人称、戻ってるし」
「多分すぐに消える。教えてくれ、酒井」
それはまさに懇願であった。心の奥底から湧き出てくる欲望に抗えぬ彼の叫び。すぐに消える、という言葉の意味は理解できなかったけど。
残念ながら、彼の思う通りにはならない。私が生きていく上で、真村真嗣という男の存在は大きく、心を侵食していった。当の本人はそれを知らないが、今この状況で彼を手放すわけにはいかなかった。
「キスでもする?」
そうやって、私は唇を突き出した。
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