幸福?②
私に出来ることはなんだろう。
病院から家までの道のりで、ただひたすらに頭を回してみた。答えは出ずとも、気持ちは少しだけ楽になる。
秋の風にしては、少し冷たすぎる気がする。ぶるると震える体を誤魔化すように、両腕をさする。特に変わらない。
肩に掛けた軽いカバンが落ちないように、姿勢を整えると、家まで残り僅かだということに気づいた。
結局彼は、ずっと家に居たようだ。
まぁサボるようなタイプでもない。頭が痛かったのも本当だろう。良くなったと連絡があった時は、素直に安堵した。
マンションのオートロックを潜り、エレベーターに乗る。三階のボタンを押すと、少し反応が悪い気がした。
しっかり施錠をする人だと知っていたから、鍵を差し込んでクルリと回す。予想通り、ドアノブは素直に回ってくれた。
「ただいま」
一人暮らしに体が慣れているから、この言葉の違和感が消えない。共同生活一か月が過ぎた今でもだ。
言っても返ってくることがないから。「おかえり」なんて、本当に聞くことが無かった。
それを、彼は言ってくれた。
本当に不思議な感覚だった。帰る場所に、誰かが居ることが。心が高鳴って、躍った。そのことは彼には言ってない。恥ずかしいから。
でもこの日は、返ってこなかった。
家に居るはずなのに。彼が普段履いているスニーカーはある。革靴もある。眠っているのだろう。
あまり音を立てないように、リビングへ足を進める。引き戸で仕切られた先が、私の部屋。畳が敷かれた和室を自室として利用することにも慣れた。この匂いは独特で、でも安心するから好きだ。
布団派だから、女子高生が使うような可愛らしいベッドや毛布は無い。元々そんなにこだわるタイプでも無いし。
適当にカバンを置いて、部屋着に着替える。相変わらず成長する気のない胸を鼻で笑いながら、スウェットを被る。
リビングに戻り、そのままキッチンへ。冷蔵庫を開けて何があるか確認する。今日は病院に行ったせいで買い物を忘れてしまった。
……一応、彼は病人だ。胃に優しいスープとおかゆを作るだけ。それには問題が無い。とりあえず一安心する。
壁時計に目をやると、十八時を過ぎていた。キッチンの明かりだけでは暗く感じたから、カーテンを閉めてリビングを明るく照らす。
さっきから、うんともすんとも言わない彼の部屋。それが途端に気になって、扉の前に立ってみる。耳を澄ましてみても、何も聞こえない。本当に彼がここに居るのかすら怪しく感じる静寂が、今の私にはあまりにも気持ち悪かった。
二度、扉を叩いてみる。彼の名前を声にしても、反応はない。
さっきまでは「眠っているだけだろう」と考えていたけど、こうも静かだと気味が悪い。もしかしたら、体調が悪化して意識が無くなっていたり……なんて感情が顔を覗かせた瞬間、私は返事を待たずに扉を開けた。
彼が来る前は空き部屋だったせいで、この場所には特に思い入れはない。ただその分、自分の家だという認識も薄く、人様の家に上がり込むような感覚に襲われた。
同じ家なのに、かすかに違う匂い。彼独特のどこか懐かしい香りが部屋中に充満していた。
明かりを点けたくなる暗さだった。でも目の前には布団の上で穏やかに眠っている彼が居た。呼吸で被さった毛布が上下に揺れている。
素直に安堵した。一つ息をつく。
そのまま彼の部屋に踏み入ろうとも思ったけれど、寝顔をまじまじと見られるのは嫌なはず。思いとどまって、扉を優しく閉めた。
キッチンに戻って、冷蔵庫から卵と適当な野菜を取り出す。蛇口を上に上げると、ソレは右手をひんやりと冷ましてみせる。
心の奥。それも深く深くに鍵を掛けた場所。そこが疼くのが分かる。手に取った野菜を洗うことなく、ただ垂れ流させる水道の音だけがこの家を包み込んだ。
彼の記憶が戻ったら、私はどんな顔をすればいいのか。どんな言葉をかけたらいいのか。いや、そもそも私が彼の前に立つ資格はあるのか。
どうしても思考は下へ下へと向かう。これは仕方がないことだと割り切っても、この憂鬱になる感情はいつまで経っても慣れるものじゃない。
ため息にして誤魔化してみても、心の中は変わらない。それどころか、胸が重くなったような感覚に陥る。ようやく来た成長期だろうか、なんて冗談も今は煩い。
色々と重くなった体。水道を止めて、手に持っていた野菜をそのまま、まな板の上に置く。買った時は「新鮮さが売り」なんてラベリングだったのに。私の行為は、見事にそれに反していた。
今の私には、夕食すら喉を通したくない。一人だったらこのまま風呂にも入らず眠っていたかもしれない。
彼のことが心配であることは確かだ。だからキッチンには立つ。別に具合が悪いわけじゃないが、私もおかゆと野菜スープだけで充分な気がしている。
「あ……おかえり」
彼の存在は理解していたのに、ヒュッと突然現れられると私としても少し怖い。変な声を出しそうになったけど、喉をキュッと締めて堪えてみせる。
早まった心臓はしばらく収まりそうにない。眠そうな目を擦りながら、私の顔をボーッとした様子で眺める彼。
どこか子どもっぽくて、少し可愛い。母性をくすぐられる、というのだろうか。いずれにしても、口元が緩むのを抑えられなかった。
「うん。ただいま。体調どう?」
「すっかり落ち着いた。ただ眠い」
「もう少し寝てていいのに」
「夜眠れなくなるからさ」
そう言う彼に、私は言えなかった。
その頭痛の原因が、事故のせいかもしれないと。でもそのおかげで、何も知らない彼はここに居るのだから。
と、自身を正当化した。
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