ごめんね、恋人
幸福?①
甘い記憶というのは、日に日に薄くなって、やがて味気なくなるモノだ。
幼い頃の楽しかった思い出も、成長するにつれ素直に楽しめなくなっていて。ダメ押しするように家の事情が重なった。
そんな私に、彼は似ていた。
湿気が消え去った風。体に吹き付ける。
冬服がようやく肌に馴染んできたと感じる。いい具合に冷たさを感じさせず、外の空気が心地良い。
十月の中旬。私の隣に彼は居ない。
この日。頭が痛いと言って、彼は学校を休んだのだ。
慣れない環境に身を置いたから。その疲れのせいで風邪を引いた。なんて本人は言ってる。でも熱は無かったし、今日の朝まで食欲もあった。ただ顔色はあまり良くなくて、嘘なんかじゃないとすぐ分かった。
病院に行くように言って、私は一人で家を出た。あのまま一緒に休むことも一瞬考えた。でもすぐに、それは無意味だと気付いたけれど。
私から担任の藤村先生に伝えると、意外にもすんなり受け入れてくれた。普段の態度が良いからだろうか。それにしても、信用しすぎなところもある。
共同生活は、思っていた以上に順調だった。大きな喧嘩もなく、彼は私の生活リズムに馴染もうとしてくれている。
恋人である事実を受け入れているのに、私に何もしようとしない。チューしたい、なんて言ってたくせにそんな素振りすらしない。
それがどう言う意味か。
私には、分かってしまう。
彼の頭痛は、今に始まったことではない。一緒に暮らし始めた一か月前から今日まで、幾度となくその言葉を聞いた。
そう言う意味では、少し心配だった。風邪じゃない何かとすれば、重大な病気が隠されているような気がして。
……でも、一つ心当たりがあった。
彼の頭痛の原因について。
それは根拠も何も無い。私の勝手な想像に過ぎない。それでも私の中で身勝手に進んでいく思考。だけどそれは、スッと心に落ちる。
「お待たせ」
だから私は、この人に会いに来た。
具合なんて悪くないのに。病院の空気は独特で少し嫌い。
彼の主治医だった神山先生は、今日も穏やかな顔で私の前に現れる。突然の訪問だったけど、快く招き入れてくれた。大人の余裕というモノが目に見えて分かる。
安いインスタントコーヒーを私の前に差し出してくれるその仕草すら、どこか余裕。安物かもしれないけど、良い香りがする。ソファに沈む体の力が抜けそうになる。
「喧嘩でもした?」
何も言っていないのに、先生は茶化したように笑う。真面目そうなのに、意外と軟派なところがある。別に嫌いではないが、得意でもない。
喉につっかえた感覚を取り払うように、ひとつ小さな咳払いをする。
「違いますよ。ご相談です」
「僕に?」
彼は少し驚いた顔をして、コーヒーを啜る。世間話をしに来たとでも思っていたのだろうか。そんな呑気な人ではないと分かってはいるが。
「最近、彼の調子が悪くて」
そう言うと、先生の顔は少し険しいものになった。穏やかな話じゃないと察したようで、クルクル回る椅子の動きを止めた。
「どのように?」
「少し前から時々、頭が痛いと。それで今日初めて学校を休んだんです」
「熱は?」
「無くて。だから近所の内科に行くように促しました」
彼が退院して二か月。実は、ついこの間の通院が最後。だからもう、彼のことを神山先生に相談する理由はないのだ。
ただ、共同生活を送る上で先生の助言は学校を動かした。卒業するまでの保護者と言えば、しっくりくる。有難いことに、神山先生本人も丁寧に接してくれている。
「うーん……」
難しそうな顔をしている。軟派な顔をしていた数分前とは大違いだ。
「寝たら良くなるとかの繰り返しだったみたいで。今回もそうだったとさっき連絡がありました」
「ひとまずは安心だね。ただ……」
一瞬だけ頬を緩ませたが、すぐにまた険しい顔をする。何か言いにくいことでもあるのだろう。概ね予想はついている。
「……記憶、のことですか」
私の口から出てきた言葉に、彼は少し目を見開いた。やがて、頷く。
「可能性はある」
「戻りかけている、ということでしょうか」
「……それは何とも言えないな」
少し難しい質問をしてしまったようだ。
てっきり、痛みが出るというのは体の直感、本能が訴えかけているモノだと思っていただけに。
「あの日の、君の言う通りだったよ」
先生は、おもむろに話し出す。
あの日、というのは私が初めて違和感を抱いた時。まだ暑さが残っていた印象が強い。
「彼は事故が起きる三日間のことが、スッポリ抜けているようだった。君に言われた通り、思い出させないように触れてないけど」
「……はい」
それが幸せだと思ったから。
彼に何の相談もせず、こうして根回しをして。心に枷をしたまま生きるより、生まれ変わった真村真嗣として生きてほしい。
それを余計なお世話ということぐらい、わかっている。でも放っておけないのだ。だって彼は、私に似ているから。
「このまま、思い出してしまうことも……」
「否定はできない。でも一つ言えるのは」
「……」
「いつか必ず、現実と向き合う必要があること」
何も言い返せなかった。
このまま忘れていた、が通用するほど現実は甘くない。
先生はそれを分かっているから、語気を強めたのだろう。私のやり方は間違っていると言わんばかりに。
こうして私の願いに寄り添ってくれているのだから、優しい先生であることには違いない。ただきっと、限度を見極めてその時は容赦なく彼に告げるだろう。
「……だから君が居るんだろう?」
「私が……」
「きっとこの先は、君にしかできないこともある」
私に出来ることは、なんだろう。
一緒に暮らして、彼のことを思うこと。それとも、彼の健康に気を遣った料理を振る舞うこと。言い出せばキリがない。
でも記憶のことも、彼は知らない。私が勝手に判断して、先生に無理を言ってるだけ。
結局、自分のことしか考えていないのだ。
やはり私は、嘘つきだ。
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