弁当?②


 ただいま、と言いたい気持ちはあった。

 ここは酒井の家でもあるが、俺の家でもある。だからそう言うことに何の間違いもない。きっと彼女もソレを否定することはないだろう。


 貰った合鍵を差し込んで、ドアノブを回したその瞬間までは。そのつもりでいた。

 ただ、ドアを開けて広がるのは、酒井が纏っている甘い匂い。本能が言うのだ。ここは自分の家ではないと。

 鼻が詰まったような気がしたから、言葉は出てこなかった。


「……まだ帰ってないのか」


 彼女の気配は、そこに無かった。

 俺が声を掛ける前に、そそくさと教室を出て行ったのに。何と声を掛けるかは考えてもいなかったが。


 そのまま靴を脱いで、カバンやら制服を部屋に脱ぎ捨てる。素早く部屋着に着替えて平らげた弁当箱と、帰りに買ったコンビニ袋をキッチンに持っていく。


 コンビニ袋からチョコレートケーキを取り出して、そのまま冷蔵庫にしまいこむ。ご機嫌取りと言えばその通りだが、丸腰よりはマシだろう。


 誰も居ないリビングには、暗くなる前の太陽の光がわずかに差し込んでいる。もう少ししたらカーテンを閉めて明かりを点す時間になる。酒井も、流石にその頃には帰ってくるだろう。


 キッチンの明かりを点けて、弁当箱の蓋を開ける。食べ終えた後のこの匂いは、改めて嗅ぐとあまり好きではない。美味しいモノが詰め込まれていたとは思えない独特さが。


 蛇口を上にあげる。思ったより勢いよく出てくる水に驚く。

 スポンジを濡らして、洗剤を染み込ませる。クシャクシャ握ると泡立つソレに、視線を落としたまま考える。


(買い物行ってるのかも。荷物持ちぐらいするのに)


 ふと考えた。でもそれは、あまり好ましくはないだろう。互いにとって。学校にとって。

 二人が買い物袋を持っているだけでも、その関係性が窺える。俺たちのことを知っているのは、学校と主治医の神山先生だけだ。

 まぁ同じマンションに住んでいるだけ、と逃げることは出来る。が、あらぬ噂を立てられるのは好ましくはない。そう考えると、二人でデートに行くことも難しいのかな。


 どのみち、昨日は映画に行かなくて良かった。……行けなかったと言うべきだろうが。


 泡立ったスポンジを弁当箱に当てる。

 感謝の念を込めて、丁寧に洗う。思えば、洗い物なんてしたのはいつぶりだろう。母親と暮らしていた時も、あまり手伝いをしなかったな。


 母さん、元気にしているかな。

 たまには連絡の一つぐらい寄越せ、なんて言われてた。最後にそう言われたのは……いつだったっけ。


 頭が痛む。風邪を引きかけているのかもしれない。最近、この時間帯になると肌寒いし。

 そうなると、移さないようにしなきゃ。二人揃って学校休むなんて事態にならないよう。先生たちから変な誤解を受けたくないし。


 水を止めて、濡れた弁当箱をシンクの上で揺らす。水切りのつもりだが、上手く出来ているかは分からない。


 布巾で完全に水気を取り払う。元々どこに置いていたのかまでは分からない。とりあえず洗ったことが分かればいいか。


 さて、ひとまずの仕事は終わった。酒井が帰ってくるまですることは無い。家事をやろうかとも思ったが、出来ることが見つからずソファに腰掛ける。


 頭の痛みは続いている。

 思い返す。最近、変な頭痛が多い気がする。具合が悪いわけではない。あるとしたら、若干の気持ち悪さ。

 ……やはり風邪だろうか。そう思うと、明日には熱が出てきそうな気がしてきた。念のため、風邪薬を飲んでおいた方がいいかもしれない。


 立ち上がって、薬箱がありそうな場所を探す。が、そのタイミングで鍵が刺さる音。テレビも付けていない静かな状況だったから、よく聞こえる。帰ってきたらしい。


 そういえば、鍵開けっ放しだ。てことは……。

 ドンッ! と閉まったドアを開ける音。そりゃそうなるよな。開いているドアを閉めただけなんだから。


「あれっ……?」


 酒井の素っ頓狂な声が、わずかに聞こえる。申し訳ないのに、思わず笑ってしまいそうになる。完全に俺と一緒に暮らしていることを忘れていたような声だ。


 ガチャガチャと鍵を入れ直す音。ロックが外れ、今度こそドアを開く。先ほどよりは勢いが無い。


「あ………」


 酒井は気の抜けた顔をしていた。気まずい空気を無くすだけの破壊力がある。俺の姿を見て、共同生活のことを思い出したのだろう。右手には、スーパーの買い物袋。


「おかえり」


 先ほどより暗くなった部屋。だから、廊下の電気を点ける。彼女の間抜けな顔は、少しだけマシになっている。

 誰かの帰りを待ったのも、久々だ。おかえり、なんて言ったのも。


「………」

「凪沙?」

「あ……ご、ごめん。うん。うん……」


 彼女の背後で、ドアが閉まる。

 完全に二人だけの世界。靴を脱ぐことなく、何か言いたそうにしている。

 わずかに揺れるその小さな肩。唇。それはまるで、涙を堪えているようにすら見えて。途端に抱きしめたくなる。


 結局、そうなんだ。

 俺たちはそれが出来るだけの、関係じゃない。恋人なのに。一緒に暮らしているのに。

 俺は、恋人である事実を知らない。ずっとそうだ。それなのに、こうして図々しく君の家に転がり込んだ。


「久しぶりに言われた」

「……え」

「おかえり、って」


 だから、これから。

 本当に、心の底から君と恋人になれるように。いや、なりたい。

 この想いを、伝えられないのが寂しくて、辛い。だからこそ、思い切り伝えられるように。


「何度だって言うよ。それぐらいなら」

「……ふふっ。ばか」


 笑う君とは裏腹に。

 頭の痛みは、消えようとしない。




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