同棲?③
「―――それで、僕のとこに来たわけ」
「すみません。他に相談できる人居なくて」
「いいよいいよ」主治医の神山先生は、優しい声でそう言う。少し安心した。
時刻は夕方の五時を過ぎている。忙しい時間帯だろうと思ったが、このやり場のない感情を誰かにぶつけないと気が済まなかった。
普段の診察室じゃない、接客用の個室。質素感は全然なくて、高級感ある黒革のソファが俺を出迎えた。
「コーヒー飲める?」
「あ、お構いなく……」
「気を遣わないでよ。インスタントだけどね」
インスタントコーヒーだとしても、この部屋の空気がその香りを高級なモノに変貌させる。先生がお湯をコップに注ぐと、部屋中に広がる苦味のある匂い。
鼻の奥に居座る。コーヒーの匂いは好きだ。心が落ち着く。
「どうぞ」お洒落なグラスに注がれた黒色。闇のような深さはない。清涼感のあるソレは湯気とともに。
「美味しいです」
「そう? 安物だけど」
熱くてあまり飲めなかった。自分のことを猫舌だとは思わないが、今の俺には少し熱い。体がそれだけ熱くなっているからか。
笑う彼を見て、呼吸を整えた。
「にしても、急展開だね」
「本当ですよ。もう何がなんだか」
「それだけ君のことが好きなんじゃない?」
普通に考えればそうだ。好きすぎるがあまりの行動。重い愛であることには違いないが。
でも、あの子は違うと思う。何か意図があって、あんなことを言い出した。根拠はない。ないが、断言できる自分が怖い。
白のLEDライトが部屋を照らしている。今の俺には少し眩しすぎるな、この色は。
「この時間は診療じゃないからさ」
「えっ?」
「気兼ねなく言って。退院したばかりでストレスも溜まってるでしょ?」
先生は着ていた白衣を脱いで、黒のワイシャツ姿になる。白衣以外の彼を見たのは新鮮で、確かに診療とは違った空気感が部屋を包んだ。
外は夕焼けだろうか。ブラインドの隙間からわずかに漏れる光は、LEDの白色に飲まれている。勿体ないな。少し。
「どうしたら良いんですかね」
「思うままに動いたら?」
「うーん」
その思うままに、というのが分からない。俺はどう立ち回れば良いのだろう。どれが正解なんだろう。巡れど巡れど、答えは出ない。浮かぶのは、少しだけ嬉しそうにしていた酒井凪沙の顔だけ。
「そういえば彼女のこと、お母さんに言ったの?」
「いえ。正直、その、言うべきかどうか分かんなくて」
「そう」
別に言う必要もない。いつまで続くのか分からない関係だ。どうして先生がそんなことを聞いてきたのかは謎だが、気にしないことにする。
「あの子が何を考えるのか、読めなくて」
「例えば?」
「恋人だと嘘を吐くこととか」なんて言い出しそうになったのを、必死に飲み込んだ。
「今回みたく、変なこと言い出したり」
「人間そんなモノだよ。心の中を読むことなんて、できない」
重い言葉だった。先生は続ける。
「相手の心を読めたとして、君は何をする?」
「……それに見合った行動を」
「それは優しさでもなんでもなくて、支配になると思わない?」
言い返す言葉が見つからなかった。
優しさでもなんでもない。支配。とっても苦くて嫌な言葉なのに、自分が言った言葉の意味が分かった気がして、気持ちが悪かった。
「人間の心は分からないから、人は相手に好かれようと努力する。相手のことを思って行動する。そうだと、僕は思うな」
「……勉強になります」
「大袈裟だよ」顔の前で手をひらひらさせながら、先生は笑っている。
この人は先生である以前に、大人だ。俺が考えもしなかった思考を平然と持ち合わせていて、嫌味なく教えてくれる。
もしそうだとしたら、酒井も俺のことを考えてくれているのかもしれない。手段としてはアレだが、素直に優しさとして受け取って良いモノか。
「二人とも、まだまだ子どもだね」
「そうですよ」
「一番難しい時期だよね。高二って」
「先生もそうだったんですか?」
「そうだねぇ」
白髪が目立ってきた頭を掻きながら、記憶を呼び起こしているようだ。その瞬間だけ、すごく老けたような印象を受ける。若作りしていた化けの皮が剥がれたみたいで、少し可笑しかった。
「体は大人だと思っていても、心は全然だったな」
「……というと?」
「好きな子にフラれて、三日間寝込んだり」
「可愛いじゃないですか」
「今思えばね。でも大人になってからは、そんなことはない」
彼はコーヒーを啜りながら、俺の目をジッと見つめている。ズズッとコーヒーが擦れる音。あまり上品な音ではないが、釣られるように俺もコーヒーに口づけた。
「子どもに「臭い」と言われたからって仕事は休めない。妻にお小遣い減らされたって仕事は休めない。愛犬にすら吠えられても、仕事は休めない」
「ご、ご愁傷様です」
「今のは僕の話じゃないよ。誤解しないでね」
絶対そうだな。若干キレてたし。
「それはそうと」咳払いをして、先生は話を切る。さては逃げたな。下手に突っ込まれないように。
「生きていればきっと、辛いことに遭遇する。ほとんど辛いことばかりだ。若い君だって、悲しいことから逃げたくなるでしょ?」
グラスに指をかけたまま、先生の言葉に吸い込まれていた。熱いはずのコーヒー。その熱がグラスを通って指に伝わる。熱いのに、離したくない。これはまるで、自身の心臓のようにドクドクと脈打っている。
あまりにも、不思議な感覚だった。周りの音は何も聞こえなくて、先生の言葉に集中しきっている。スポーツ選手に多い「ゾーンに入っている」という表現が合うのなら、きっとそれだ。
「蓋をして、溶け込むのを待つ人がほとんどだろうね」
「フタ……?」
「悲しみを共有することは、すごく難しいことなんだ。人は、どこまで行っても他人だから」
「それは、確かに」
「でも、人は一人じゃ生きていけない。それは、君がよく分かってるはずだよ」
顔も知らない父親のおかげで、俺は高校に通えている。寮に住ませてもらえている。俺は、親が居ないと何も出来ない。この歳で社会に出る勇気も無いし、つもりもない。
そう。俺は、誰かに生かされている。一人じゃ何も出来ないただの高校二年生なのだ。
「……何か説教っぽくなっちゃったね。ごめんね」
カチャリ、と乾いた音がする。ゾーンから抜け出したようで、ぷはっと息を吐いた。心臓が跳ねている。結構な時間息を止めていたようだ。
「僕の意見はね」
空になったグラス。その残り香が虚しく空気に消えていく。
「君と彼女、一緒に住むべきだと思う」
息が詰まる。そう言われて、驚きはなかった。むしろ「あぁやっぱりか」と思ってしまう自分がいて。
「それは、神山先生としての意見ですか。それとも、神山さんとしての意見ですか」
「ははっ。僕も言ったことには責任を持つよ。前者だね」
先生と話していて、俺と酒井は何か似ている部分があると感じた。いや、似ているというか、共通点というか。それを神山先生は察したのだろうか。
実際、家族が遠くにいて今は一人だという接点はある。そのことを知っていての提案だとしたら、説得力もあるな。
「担任の藤村先生には相談した?」
「はい。保留だと言われました」
「そう。偉いじゃん。ちゃんと大人に相談して」
―― 一人は、嫌なんです
あぁ、くそっ。
これじゃもう決まったようなモノだ。病院の先生がそんなことを認めるなんて、前代未聞じゃないのか。難しい言葉を並べておいて、この人は本当に分かっているのだろうか。
指先が痛い。熱いグラスを掴んでいたせいで、火傷したようだ。
「僕に相談してきた時点で、君はあの子のことを考えているんじゃない?」
火傷した指先を意識したまま、俺は頷いた。自分でもそれが本心なのか、よく分からない。
「でもアレだよ。アレ」
「アレ?」
「しっかり避妊しないとダメだよ」
うるせぇこの変態メガネ!
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