日陰?③



「退院してからしばらく経つけど、変わったことある?」

「特にありません。毎日充実してますよ」


 退院してからの問診は、これが初めてではない。緊張感のかけらもなく先生の質問に答えていくだけ。正直、三十分もかけて歩く必要があるかと言われれば、ノーである。


 ただ、今日は少し特別だ。普段はこの小さな個室に神山先生と俺の二人きり。でも、俺の隣には酒井凪沙が座っている。うなじが妙に色っぽくて、視線が泳ぐ。


「可愛いガールフレンドが居るもんね」


 落ち着かない俺を見たからか、神山先生が茶化してくる。ここで否定するのもアレだから「そうなんです」と素直に肯定しておこう。


「そんなこと……」


 やはり、今日の酒井は少し変だ。

 使う言葉こそ、普段とあまり変わらない。こうやって謙遜するのは見慣れている。でも、その声だ。あまりにも力が無い。俺と二人で話している時の活発さが微塵も感じられなかった。


「体の方はどう? 痛むところとか」

「全然っす。むしろ良くなってきてますよ」

「うん、それなら良かった」


 打撲による怪我がほとんどで、退院する時にはほぼ痛みもなかった。だから薬を飲んでいるわけではない。湿布をもらっただけで。その湿布もしばらく使っていなかった。それだけ、健康体になりつつあるのだ。


「記憶の方はどう?」


 ……毎回聞かれるんだよな。これ。

 正直なところ、分からん。酒井のことが記憶喪失だという可能性もあるし、彼女が嘘をついている可能性もある。本当のことは、間違いなく酒井凪沙しか知らない。

 でも、それをこの場で言うのはどうか。俺なりの優しさではある。使う必要のない優しさ。恋人でもなんでもない感覚が心を占めている。


 でも、入院中の件もある。俺にとって、間違いなく酒井凪沙は恩人だった。


「変わりないですよ」


 神山先生は、俺の顔をジッと見つめる。背もたれのない丸椅子に座っているせいか、姿勢を保つのがダルそうだ。それを誤魔化すように、クルクルと左右に揺れながら、何かを考えている。


「嘘はつかないでね?」

「えっ?」

「強がりとか嘘は、心をダメにするから」

「はぁ……」


 気の抜けた相槌しか打てなかった。

 これまでは「良かった」と一言で済ませていたのに、先生が食い下がらないのは意外だ。

 いや、もしかしたらずっと何かを感じていたのかもしれない。言わなかっただけで。俺自身、嘘を吐くのは得意じゃないから、きっと顔に出ていたのかも。


「仮にそうだとしても、俺は良いです」

「どうして?」

「今は、すごく楽しいから」


 事実だ。正直、目が覚めてからずっと、良い夢を見ているような気分ですら居る。すごく気持ちが良いのだ。生きてて良かったと、思うほどに。


 それはつまり、事故に遭う前の自分を思いっきり否定することだと、心のどこかでは分かっていた。


「凪沙も居ますし、生きますよ」

「……君は本当に真っ直ぐだね。良いボーイフレンドじゃない」


 先生の好意、というか業務に思い切り迷惑かけてるんですけどね。

 ここで正直に「彼女と付き合った記憶がないんです」といえば、どうなるだろう。真実はすぐそこにあるのに、手を伸ばしたくない。知らなくても良い事実は、知らないままで良い。その方が幸せなことだってあるだろう。


「だけど、何か少しでも変に感じたら、すぐに言いなさい。頼りなさい」

「……はい。すみません」


 俺の周りで、頼れる大人は限られる。担任の藤村先生か、この神山先生。親が近くに居ない分、二人には相当迷惑をかけるだろう。

 現に、今こうして神山先生に余計な心配をさせている。多分、俺が嘘をついていることに気付いているのだろう。そこを突っ込んでこなかったのは、優しさだろうか。


「真村君のこと、よろしくね。酒井さん」


 彼女の存在が、素直に有り難かった。

 この席は、本来なら母親が座るポジション。そこで一緒に話を聞いてくれているのだ。心強い。


「よし。じゃあ今日は帰って良いよ。気をつけてね」

「ありがとうございました」


 会釈をして病室を出る。酒井も俺に続いてトコトコと歩く。そのまま流れるように会計を済ませ、病院を出た。

 滞在時間は三十分もない。この風の匂い。夕陽に灼けた少し苦みのある香り。全身の力が抜けて、良い感じに疲れが表面に浮かんできた。


 流石に帰りはバスだ。もう歩きたくない。第一、退院したてで歩いてくるとか自分でも何考えてるのか分からんな。


「真村くん」

「ん」


 結局、酒井がどうしてここに居たのか。その理由を聞くことは出来なかった。

 だけど、結果としてこれで良かった。俺の現状というか、君の嘘に合わせていると勘づいてもらえるきっかけになった。

 でも、この恋人関係が解消されたら、それはそれで少し寂しかったりする。少なくとも、情は湧く。


 バス停まであと少しだというのに、彼女はわざわざ立ち止まる。歩きながら話せば良いのに、少し面倒だ。

 国道沿い。いつもならやかましいぐらいに行き交う車の音が、ピタリと止まった。不気味なほど、別世界に切り取られたかのよう。


「どうした?」


 その静寂が嫌で、仕方なく酒井の声に合わせることにした。立ち止まって、振り返る。

 夕焼け。染まる女子高生。芸術作品のような美しさと、愛嬌。本当に綺麗だ。彼女に見惚れない男は居ないのではないか。


 そんな彼女は、口元が少し緩んで、今日初めて微笑んでくれたような。告白でもしてくれるのかな。なんて。


「私と、一緒に暮らさない?」

「……………え?」


 予想の斜め上を行く。

 やっぱり、今日の彼女は変だ。ものすごく。



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