恋人?⑤
八月に入り、体の調子もだいぶ良くなってきた。これまでは一方的に病状を説明するだけだった主治医とも、会話することも増えた。純粋に会話できるだけの体力が戻ってきたということだ。
「先生、いつごろ退院できますか」
「打撲も順調に回復してるし、頭の怪我も問題なし。日常生活には支障ないから、しばらく通院してもらうけど、お盆前には退院できるよ」
よし、と拳を握りしめた。
すると主治医、
「ガールフレンドとデート?」
「まぁ、そんなとこです」
「青春だね。あの子、ずっと君に付きっきりだったから。目一杯お礼してあげなよ」
主治医がそう言うのなら、本当なんだろう。酒井は自分の時間を犠牲にして、俺のそばにいてくれた。それが嬉しくない男は居ないはずだ。
この際だから、その時の様子を聞いてみるか。
「彼女、どんな様子でしたか?」
すごく軽い気持ちで問いかける。
軽快に返してくれるかと思っていたが、神山先生は少し考えて、ジッと俺の目を見る。黒縁メガネの奥にあるキリッとした視線が痛い。
「……当時のことを聞くと、あまり良い気がしないかもしれないよ」
「あぁー……」言葉を失う。
ショックというよりは、なるほどと感心してしまった感情に近い。
実際、事故の日のことを思い出そうとするだけで全身が強張る。一つのトラウマになってしまっていた。俺が寝込んでいる時の話を聞くと、なおさらそうなる可能性だってあった。
「やっぱいいです。ありがとうございます」
「もう少し時間が経ってから、聞きたくなったらまた言ってよ」
「そうします」
苦笑いして、視線を窓の外にやる。
イラつくほど綺麗な青空が広がっていて、蝉捕りに勤しんでいた幼少期を思い出す。母親と二人で暮らしていたあの夏の日。戻れるのなら、もう一度だけ戻りたい。
願ったところで、無理な話だ。だから早く、大人になって母親に恩返しをしたい。そういう意味でも、本当に生きてて良かったと思う。
「あ、そうそう。学校の先生から聞いたよ。親御さんのこと」
「あぁそうですか」
「高校生の君に話すのはどうかと思うけど、これも社会勉強だと思って聞いてね」
お医者さんなだけあって、学校の先生のように説明するのはいとも容易いらしい。白衣も相まって、つい耳を傾けてしまう。
「入院費なんだけど、君のお父様に連絡してお支払いしてくれることになったから」
「父のことはあんま知らないんです。払ってくれたんですね」
「ま、君はこれまで通り学校に行って、しっかり勉強してください」
学費に加えて、入院費まで世話になるとは、情けない話ではある。まぁ、それが親の役目だと言ってしまえばそれまでだが、何せ俺にとっては父親が居ないに等しい。
神山先生も、人の家庭について言うのは気が引けたようで、それ以上は何も言わなかった。
そういえば、母さんって俺が事故に遭ったこと知ってるのかな。
……まぁ、俺から連絡すると余計な心配をかけることになるか。それに、もう学校から連絡が行ってるに違いない。何も連絡が無いのは、放任主義だった母さんらしくもある。
「一応、脳には問題ないけど、何か変に感じることがあったらすぐ相談してね」
「記憶違いとかですか?」
「そんなところ。違和感を抱いたまま生きていくのは辛いよ。きっと」
それはまるで、俺と酒井の関係性のことを指しているようだった。
本当に恋人関係であるのなら、俺が事故のショックで忘れてしまっている。そうじゃないのなら、彼女が嘘を吐いている。答えは出ているのに、そのどちらかに導くだけの証明はまだ出来そうにない。
いずれにしても、退院してからだ。
これから学校生活に戻って、少しずつ日常を取り戻していく。そこできっと、この不思議な関係性のことも分かるはずだ。
「因みに、デートってどこ行くの?」
「プールに行きたくて」
「君、今の状態分かってる?」
「分かってます」食い気味に言うと、先生は少し呆れたように俺を見た。
「水着が見たくて」
「そうだろうと思ったよ。あの子を一人で泳がせるの?」
「それは……まぁ」
たしかにそう言われると、それはそれで申し訳ない。でも、俺は恋人の水着姿を見てみたい。それはどうしても捨てられない。
「僕だったら嫌だな。他の男に見られるの」
「……だったらどうするんです?」
「簡単だよ」
先生はメガネをクイッと中指で上げる。え、何この人。なんか妙なスイッチが入ったんじゃないか。
「家で着て貰えばいい」
「天才ですか」
「家で水着って、その、ヤバいっす」
「恋人同士なんだから。あ、このことは内緒で頼むよ。主治医がこんなこと言ってたって広まったら不味いから」
「了解です」
ちょうどその時、噂の人物が病室に顔を出した。タイミングが良いのか悪いのか。思わず俺は先生と顔を見合わせてしまった。
肝心の酒井は、少し頬が赤い。走ってきたのだろうか。でも息切れしているわけではない。心なしか、めっちゃくちゃ怒っているようにも見える。
神山先生も頃合いだと察したようで、逃げるように部屋を出て行く。
「ほんとサイテーだね。二人とも」
「えっ」
酒井が神山先生のことを変態メガネと呼ぶようになった。ごめんなさい先生。
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