恋人?③
結論から言えば、俺が思っていたより怪我の具合は良かった。
体のあちこちを打撲していたが、どれも命に関わるような重篤なものではないと、黒縁メガネを掛けた主治医が説明してくれた。酒井のリアクションから、生死の境を彷徨っていたと思っただけに、少し拍子抜けだった。
俺の主治医は、とても若い人だった。だから不思議と安心感がある。
でも病状を説明する時の態度は、優しくなくて、むしろどこか悲しみというか、怒りというか。それだけの怪我で済んだのは奇跡だ、と釘を刺された。
ただ一つ気になったのは、記憶に関することを根掘り葉掘り聞かれたこと。名前や、これまでの出来事。それを事細かく聞かれて、記憶障害が起きてないかしつこく確認された。
まぁ仮に記憶障害が起きていても、今の俺にそれを確認する術はない。最低限の記憶が残っているのならそれでいいのだ。あくまでも俺は。
酒井の件だってそうだ。
俺の記憶に、彼女と付き合った事実は存在しない。告白しても、されてもない。ただのクラスメイトだ。本当に、何も意識していなかった相手である。
いや、そもそも彼女と俺では釣り合わない。だから好きになることもないし、なろうともしなかった。
それなのに、彼女は俺の側に居てくれた。
どんな理由があるのか、気にならないわけがない。どんな意図で、どんな想いで、俺に「恋人」だと嘘を吐いたのだろうか。
そして俺は、その嘘に乗っかってしまった。ここで下手に引き返すことが出来なくなったと言えばそれまで。試しに付き合ってみるのも悪くはない。むしろ感謝だ。
「真村くん。元気?」
事故から一週間が経って、ベッドに張り付けにされていた状態からようやく解放された。
八月に入り、夏休みも後半戦に差し掛かった土曜日。今日も酒井は、俺の隣に居る。いや、居てくれると言うべきか。
「いつでもチューできるぐらいには」
「もうそればっかり……」
「冗談だって。こんな毎日来なくてもいいのに」
「だーめ」彼女は前屈みになって子どもを躾るように言う。そのまま椅子に腰掛ける。私服姿の酒井は制服姿よりもキラキラと輝いて見えた。心地の良い声をしている。高すぎず、低すぎず。
「みんな心配してたよ。って言われなくても分かってるか」
「毎日誰かしら来てくれてるから」
「慕われてるんだよ。真村くんって」
「そうかな」
「そうだよ」
事実、クラスメイトの奴らが何人かお見舞いに来てくれた。全員男友達というのがミソ。まぁ恋人がいるから何とも思わないけどさ。強がりなんかじゃない。事実だ。あくまでも、本当のことである。
「夏休み中には退院できそう?」
「うん。怪我の具合は思ったほどじゃないし」
「よかった」
「あんなに心配しなくても良かったのに」
酒井は、少しだけ悲しそうな顔をした。
「心配、するよ」
少し調子に乗った自分を殴りたい。
俺のあの発言は、彼女の想いを踏みにじるモノに他ならない。どんな意図で俺に優しくしてくれているのかは分からない。裏の顔があるのかもしれない。でも、恋人として隣に居てくれる事実には変わらない。
「ごめん。ありがとう」
「分かればよろしい」
微笑んでくれる彼女は、本当に綺麗な顔をしている。見惚れるとはこのことか、と。
でも、やっぱり違和感は拭えなかった。
恋人と言うくせに、俺と酒井凪沙の間には絶妙な距離感が存在する。そもそも俺は彼女のことをよく知っているわけではない。それはきっと、酒井もそうであろう。
「凪沙」
「っ!? な、なに。真村くん」
「なんでそんな驚くのさ」
「お、驚いてないっ!」
恋人のことを苗字で呼ぶのは気が引ける。かと言って恋人である事実はないのだから、名前で呼ぶのも気が引ける。そう考え込んでいると「なぁ」とか「ねぇ」とか。相手の名前を呼ばなくなる癖が付きそうで嫌だった。
というわけで、結論。
「凪沙」呼びすることにした。脳内多数決。一応恋人なのだから、仲良くしたいのは本音だし。恥ずかしいのは最初だけだ。きっと。そう言い聞かせて。
で、驚かれたわけだ。それはそれで複雑である。
「ずるいよ。真村くん」
「ずっと名前呼びだったろ?」
「……もう」
きっと違うんだろうな。
いや、分かっていた。分かっていたからこそ、少しだけ寂しい。入院してからの一週間、ほぼ毎日顔を合わせて話してくれるのだから、恋人と言われなくても好きになっていたかもしれない。
正直な話、俺は酒井のことが好きかと言われたら、首を縦に振ることはできない。あまりにも彼女のことを知らなさすぎるのだ。
本来であれば、違うと否定するべきなのだろう。でも、あんなに心配してくれていた彼女のことを知ってしまえば、悪い子ではないと分かる。
俺のこの行為を優しさと受け取るか、意地悪と受け取るかは、しばらくして酒井自身が判断すれば良い。それだけだ。
「ねぇ、真村くん」
「なに?」
「私が恋人で、良かった?」
変なことを聞くな、この子は。
自分から言い出したことなのに、そんなことを言われても俺には分からない。
それとも、何かを期待しているのだろうか。思考を巡らせたところで、頭がズキズキ痛むだけ。難しく考える必要なんてないはずだ。
「生きてて良かったなって思うぐらいには良かったよ」
酒井はまた笑う。上品な笑顔だ。
俺の回答が正解だったのかはよく分からない。
「変わってないね。真村くん」
その笑顔は、すごく眩しくて暖かい。
彼女につられて笑ってしまう。そして、上がっていく体温。少しだけ、彼女と目を合わせるのが恥ずかしかった。頬が赤く染まっていないか心配だ。
「よく晴れてるな、今日は」
だから、部屋に差し込む日差しの所為にした。
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