恋人?②



 どれぐらい眠っていたのだろう。

 相変わらず、体の痛みは残っている。でも先ほどよりはほんの少しだけ、マシになったような気もしないでもない。


 瞼を開ける。数秒。

 ぼやけた視界。白い天井が明るく映る。徐々にハッキリと開ける視界。綺麗で白いと思っていた天井は、割と年季が入っていた。


「――――真村くん」


 少し驚いた。

 誰も居ないと思っていたから。

 ベッドに横たわる俺の左側に、綺麗な黒髪をした少女。その顔には見覚えがあった。


「なん、で?」


 すごく久しぶりに声を出した気がする。自分でも分かるほど、掠れて痛々しい声だった。

 それでも、彼女、酒井凪沙さかいなぎさは不快な顔をしない。それどころか、すごく安心したように優しく微笑んでみせた。


「声出すの、つらい?」


 つらくはないが、出したいとも思わない。ほんのわずかに動く首を縦に振ると、彼女は「うん」と相槌を打った。


「よかった。本当に、本当に……」


 彼女の手が、俺の左手に伸びる。

 こうして誰かに手を握られたのは、すごく久々な気がする。そしてそれは、すごく暖かくて心が溶けていくような錯覚を覚えた。

 視線で彼女を見ると、俯いていた。泣いているのだろうか。小さくて細い肩が揺れている。


 あぁ、そういえば。

 さっきもこんなことあったっけ。さっきがいつ頃だったかは分からないけど、こうして酒井に手を握られていた。

 その時からずっと、俺の側に居たのかな。だとしたら、なんでそこまでして?


――――私は、あなたの恋人なの。


 不思議なモノだ。

 そんな事実は一切無いのに、嘘でもこんな可愛い子にそう言われると心が躍る。人間、というか男というのは、ひどく単純で馬鹿な生き物なのかもしれない。その証拠は、俺だ。


 そもそもの話。

 何故、彼女は俺にそんなを吐いたのだろうか。純粋に揶揄っているのだろうか。……いや、彼女の表情を見る限りそんな感じはしない。まさに、俺の為に涙を流してくれている。


「覚えてる? 私のことも、これまでのことも」


 そう言われて、記憶をたぐり寄せてみる。

 名前は覚えている。真村真嗣。そしてこの子は、クラスメイトの酒井凪沙。俺たちは夏ヶ丘高校に通う高校二年生だ。

 あぁ、そうそう。今は夏休みで、その帰り道に車に撥ねられたんだっけ。


 衝撃インパクトの瞬間のことは、正直あまり思い出したくない。今こうして、病院のベッドに横になっていて、意識もある。助かったのだから、それで良い。


「真村くん?」


 彼女の問いかけに返答するのを忘れていた。

 首を縦に振るだけで、酒井には伝わるはず。そうだと分かっていたのに。


「覚えてる」


 酒井は、少し驚いていた。

 覚えていないと思っていたのだろうか。でも、少しだけ、ほんの少しだけ口角が上がった。


「よかった」


 その一言には、すごく沢山の想いが込められているような。本当にこの子は俺にを寄せてくれている。確信なんてモノは無かったけれど、そんな気がして、すごく気分が良くなった。


 そこでようやく、頭が包帯でぐるぐる巻きにされていることに気づいた。さっきからの脳を締め付けるような圧迫感は、これが原因だったのか。それとも、純粋に俺の記憶が傷ついているだけの痛みなのか。よくわからない。


「さっきまで藤村先生も居たの。でも、目が覚めたって分かったら学校に戻っちゃった」


 担任の名前を聞いて、妙に体が強張った。色々と学校にも、酒井にも迷惑をかけたようだ。それもそうだ。夏休み中の事故。しかも補習帰りとなれば、学校側の監督責任が問われかねない。そういう意味でも、俺が目を覚ましたのは良かったのだろう。


 ずっと彼女は、俺の手を握ってくれている。恥ずかしさは感じない。むしろ安心感でまた眠ってしまいそうだ。

 そうだ。この子は俺の恋人なのだ。俺は知らないが、彼女がそう言うのだから、きっとそう。


「退院したら、何したい?」


 酒井凪沙の優しさ。その海に浸かり切ってしまったせいか、特になんとも思っていなかったクラスメイトが、非常に可愛く見える。

 あまり声を出して欲しくないのは本音だろうが、こうして問いかけてくるあたり、俺と会話したい気持ちを抑えきれないらしい。可愛い奴だ。


「だったら」

「だったら?」

「とりあえず」

「とりあえず?」

「君とチューしたい」

「ほぉ、なるほど」


 飲み込んだかのように思えた態度。奥歯で言葉を噛み砕いているが、それが異物だと気づいたらしく。


「ちゅ、ちゅ、チュー!?」


 病室に似合わない声で吐き出した。

 恋人同士にとって、チューなんてのは挨拶にすぎない。本音を言えば、こんな可愛い子を捕まえるなんてことは、この先ないだろう。だからもっと先までシタイ。


 あからさまに狼狽えたくせに、俺の表情を見た途端に、キリッと顔を作り直している。


「そ、そういうのは……まだ」


 すっかり、忘れていた。

 きっと彼女は俺を揶揄っているだけだ。酒井凪沙というクラスメイトの性格を、俺はよく知っている。

 可愛くて、人気者で、お調子者で。すごくポジティブな子。俺が事故で落ち込んでいると思ったのだろう。だからこうやって「恋人」だなんて嘘を吐く。

 根幹にあるのは、俺に元気を出して欲しいという想い。それも彼女なりの優しさであることは分かる。が、生憎俺はそんな嘘は嫌いだ。

 恋人だなんて、誰も救われない嘘。でも、一度それに乗っかってしまったのは事実だ。


 ……いや、もう。

 一度死にかけたのだから。

 俺に、失うモノは何一つ無い。


「ほ、ほ、ほら。まだしばらく入院みたいだから」

「退院したら」

「えっ?」

「退院したら、いい?」


 だから俺は、意地でも君とキスしてやる。


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